営業力ではなく編集力を。昭和的エディット能力が求められる訳。稀代の編集者・米原康正インタビュー(1/2)

-
INTERVIEWS:
米原康正/編集者/アーティスト


僕は大学を出たらちゃんと就職するんだなと思ってた。親戚含めて先生とか公務員ばっかりの僕は、小さい頃から親には、とにかく公務員か、もしくはお医者さんみたいなしっかりした所で働きなさいって呪いの言葉みたいに言われてた。

東京に出て来る前に熊本で専門学校に通ってて、近所の奥さんと不倫みたいになっちゃいました (笑聲) 。雨宿りしてたら「あれ?あそこの予備校の学生さん?」「お茶でも飲んでけば?」なんて言われたの。何回かお茶のみに行ってたら、ある日「奥さん!」みたいにメロドラマ (笑聲) 。ある時、僕と連絡が取れないって何故かその奥さんからウチの親に手紙が来たらしく、ちょうど受験で東京に来てる時にそれが発覚して、そのまま僕家出したのよ。僕、家出は結構何回かあるんだよね。高校生の時に気持ちいいオナニーを色々考えてたわけ。色んな本で調べると、蒟蒻がスゲーみたいな、温めると良いって書いてあってさ、それで親がちょうどドライブに出かけてる時があって、流石に蒟蒻をグツグツ煮てて親が帰って来て「お前なんで蒟蒻煮てんだ」ってなると恥ずかしいから、風呂で温めればちょうど人肌になるだろうと思って沸かしてさ、蒟蒻を投げ込んだわけ (笑聲) 。それで終わった後にちょうど親父達が帰って来て良かった良かったと思って窓から蒟蒻捨ててさ(笑聲)。そしたら親父が風呂に入って、「なんか蒟蒻臭いぞ」って言われて僕、、、。その日に家出したんだよね (笑聲)。 完璧に父親にバレるっていう (笑聲) 。

大学生の頃、渋谷のセンター街の奥にナイロン100%っていうニューウェーブのカフェがあってさ、ミュージシャンや絵を描いたりする奴等が集まる場所で生活を送りながら、働いてたんだけど、僕は大学を出たらちゃんと就職するんだなと思ってた。やっぱり田舎の少年って刷り込みがあって、親戚を含めて家の周りが先生とか公務員ばっかりの僕は親からとにかく公務員か、もしくはお医者さんみたいなしっかりした所で働きなさいって呪いの言葉みたいに言われてた。だからカフェに集まるみんなと何か一緒にやれば面白いのにな~って思いながらもやれず、就職しなきゃな~なんて思いながらバイトに明け暮れてた。

やっぱりどういう本を作るのか?っていうのがベースにあって、そこから外れるような企画はどんなにお金を積まれても断るみたいな、凄い昭和な感じがするんだけど、雑誌に個性があった。昭和の雑誌作りってのは本来大切な事でこういう風にして雑誌ができていくんだっていう事をそこで学んだ気がする。

大学に通いながら、『週刊明星』っていう芸能雑誌があってそこでバイトし始めたのよ。ちゃんとバイトすると月30万くらいになってさ、プラス年2回ボーナスが出るの、1.5か月分とか。結構いい金額なんだよ。仕送りもあるし、家賃は払ってもらってるから、なんかあれ?みたいな、就職しなくてもバイトで全然食ってけるんじゃないかみたいな気になってた。

でも学生じゃなくなったら、ライターだとかちゃんとした立ち位置を確立しないといけないとは思い始めてた。その時『ギャルズライフ(GALS LIFE) 』っていうその後の『egg』みたいな国会で問題になった本があるんだけど、当時の不良な女の人達を集めて、ファッションも最先端で、写真も凄いメンバーが撮ったりしてた。僕はその中のドキュメト担当で、13歳売春少女とか、女子高生の正しいマリファナの吸い方とか (笑聲) 、そういう特集を専門でやらされてたんだけど、その雑誌が国会で問題になっちゃって廃刊になっちゃった (笑聲) 。そりゃそうだよね「マリファナはこうやって吸います!」みたいな写真とか撮っちゃってるからね (笑聲) 。でも最先端でお洒落な凄い本だったよ。

当時、『若い女性』と云う、後に『ViVi』に変わる雑誌があったんだけど、そこで芸能のインタビューを始めた。その時代は名物編集者って人がどこにでもいてさ、今って編集者は影が薄いけど、その当時は編集者が強くて常に営業と喧嘩してたよ。今じゃ信じられないじゃない。編集者がみんな営業みたいになっちゃってるし。その当時は、やっぱりどういう本を作るのか?っていうのがベースにあって、そこから外れるような企画は、どんなにお金を積まれても断るみたいなね。凄い昭和な感じがするんだけど、雑誌に個性があった。今は営業的に「はい、は~い」ってページ作っちゃうから、全部同じになっちゃう。だから昭和の雑誌作りってのは本来大切な事で、こういう風にして雑誌ができていくんだっていう事をその時に学んだ気がする。名物編集者の元でね。

あの当時から宝島は情報誌になってきてて、雑誌がどんどんカルチャー色を無くして情報だけを入れていくという。僕等が知っている『smart』ではないわけ。ラストオージーじゃないんだよ (笑聲)

ミリオン出版から女子高生の本を作りたいんだけどって話がきて、僕の周りには、その後「コギャル」と呼ばれる様な女の子達がいて、こういう子達を扱えばスゲー面白いんじゃないかな?って考えたんだ。それが「egg」という雑誌になった。それで僕が女子高生担当になって、二年間やってたんだけど、これがウケてきて隔月から月刊にしようって瞬間に出版社側から「そろそろ米さんには、活版の方に回って貰って」って僕を外そうとすんだよ、って言うか外すんでしょ?って。

それで、新潮社に企画持って行って『アウフォト (OUT OF PHOTOGRAPHERS) 』って雑誌を作ったんだよね。『egg』がコギャルの写真を使って自己紹介してたから、じゃあ今度は全国の人たちから写真を貰ったら凄い自己紹介の本になるのかなと思ってさ。『Instagram』の様な事をやりたかったんだと思う。今見たらまんま『Instagram』。13冊出してるんだけど、毎回3万枚くらい凄い数の写真が来てた。1997年から2001年まで3年半くらい季刊誌で発刊してたんだよね。

僕が『ナオン (NoWoN) 』って雑誌でファション・フォトグラファーにエロ写真を撮らせるって企画をやってる時に、内藤啓介ってカメラマンから「ちんかめ」という企画を相談されて関わった。それがドーンってウケてさ、やっぱりファッション誌枠でエロい事やったら絶対ウケるはずだって思って、おしゃれエロな雑誌作ろうって企画書作って宝島に持ってたのよ、それが『smart girls (スマートガールズ) 』。そこから写真集も2冊出して。

そしたらさ、酷いんだよ本当に、これも売れてウケるとまた出版社が米原さんそろそろみたいなこと言い始めてさ。担当の人と大喧嘩した時に何て言われたかって言うと「うちは文化は要らないんです」って言われたの。「売れてる情報だけ載せればそれでいいんです」って。僕は文化な本にしたかったから真ん中にインタビュー載せたり音楽情報載せたりしてたのよ。そしたら、こんなの要らないからエロいページだけ作れって。でも当時は他の出版社もそういう思考だったと思うんだ。雑誌がどんどんカルチャー色を無くして情報だけを入れていくという。僕等が知っている『smart (スマート) 』ではないわけ。ラストオージーじゃないんだよ (笑聲) 。

日本はアンダーグラウンドを気取りながら、サラリーマンみたいな人が多いじゃん。ただの裏返しみたいなさ。もしかして日本にはアンダーグラウンドって無いのかなって思った時があった。

僕、アウトサイダーがすごい好きで、社会の枠に入ってない人達が好きなんだ。だから僕は、グラムロックとか、NYパンクだとか、ロンドンパンクとかが好きだったりとかするんだ。あれは決してメジャーではなくアンダーグラウンドとしてそのまま大きくなってメジャーになってった感じじゃん。ところが、日本はアンダーグラウンドを気取りながら、サラリーマンみたいな人が多いんだよね。ただの裏返しみたいなさ。もしかして日本にはアンダーグラウンドが無いのかなって思ってた時もあった。

スマートガールズで連載してた『どこでもスナップ』ってチェキで撮った写真集を出したのよ。凄く売れて話題になったのね。そしたら、その写真で展覧会やりませんか?って言われて、じゃあ普通にチェキの写真をやってもしょうがないから並べ方を変えたり、色々パズルみたいにして、『これを飾るのどう?』って言ったら、イイねって。カメラマンデビューしたのは僕が42歳の時だね (笑聲) 。

それまでは編集者っていう形で、今でも編集の延長線上でやってるつもりだけどね。「自撮り」とか「変顔」っていうのは『egg』の時からやってたんだよ。みんなが「自分撮りー」とか「変な顔ー」って言うよりも、女子高生がもっと言い易い様にって事で僕が創り出した言葉。でも、絶対流行ると思って書いてたよ。後々聞かれた時に、僕が最初に言い出したんだぞって言いたいから周りキョロキョロして、この時期に言ってる奴はいないよなってのを確信犯的に調べてやってたね(笑聲) 。絶対これはそこに置けば流行るみたいな事が前から分かるのよ。

僕、東京に来たら東京の人になる為にはどうしなきゃいけないとかさ、チャネリングが上手なんだよね。よく自分を「17歳の女子です」って言うんだけど、じゃあ僕が17歳の女の子だった時に、何がカッコイイかとか同世代として考える。僕が17歳の時どうだったって話じゃなくて、57歳の僕が今の17歳だった時に何がウケるんだって考え方をするんだ。

裏原はアメリカの文化を取り上げたにしても、編集力っていう能力を存分に発揮してたんだと思うんだ。そういう編集能力が凄く高いこと、それが日本の良さだったりとかする。

90年代の裏原って凄い良い時代だったと思う。でも僕は裏原には女子の匂いがあまりしなかったから、基本的に仲は良いけど、仕事の輪にはいなかった。最初に『ダイス・アンド・ダイス』が『フューチュラ (Futura2000) 』を呼んだ時に凄い仲良くなって、ちんちんの付いてる宇宙人を僕の為だけに描いてくれたんだよ。僕はその頃、フューチュラをコギャルのパーティーに連れていったりとか (笑聲) 変な事をしてた。逆に外人勢が来た時にリアルな日本を見せるよって言って、多分おしゃれ好きの日本人が見せていないような所とかに連れてった。その頃、差別されてたカラオケにもバンバン連れて行ってた。

裏原はアメリカの文化を取り上げたにしても、編集力っていう能力を十分に発揮してたと思うんだ。自分たちのサイズにダウンしていくとか、ここをもっと良いものにすると、もっと良いものが出来る筈だとか。そういう編集能力が凄く高いこと、それが日本の良さだったりする思う。よく色んな人とアジアと日本の違いについて話すんだけど、要するに中国だったり韓国だったり他の国は、確かにコピーは作れるし、まんま近いものが出来るけど、それを越すことは出来ていない。

だけど日本は、コピーから始まっていつの間にかコピーを抜くっていうかさ、それよりも凄い事になってるところが日本人の才能だなと思ったりする。その頃の裏原文化って、ヒップホップだとかスケーターだとか色んなカルチャーを取り入れて、それ以上になっちゃってんじゃん!ってところがある。やっぱり仏教国日本ならではの全てを取り入れて、全てを良しとするみたいなところが、あそこ(原宿)には、存在していたと思う。

ギャルの方法論を使ってAKBのビジュアルを作る。ウケる本質は同じ。稀代の編集者・米原康正インタビュー(2/2)☞続く


編集者、クリエイティブディレクター、フォトグラファー、DJ。世界で唯一チェキをメイン機材とするアーティストとして幅広く活躍。90年代以降の東京カルチャーシーンを象徴する雑誌『egg(エッグ)』『アウフォト』『smart girls (スマートガールズ)』などを創刊してきた仕掛人であり、AKB48の立ち上げ時にはビジュアルディレクションを担当するなど、きゃりーぱみゅぱみゅをはじめとする原宿のカワイイカルチャーを世界に発信している立役者でもある。中華圏での人気も高く、中国版Twitter「新浪微博(weibo)」では235万人のフォロワーを超え、シューティングとDJをセットにしたイベントでアジアを賑わせるなど、世界のストリート・シーンで注目され、ジャパニーズ・カルチャーを作品だけでなく自身の言葉で語れる本人アーティストの一人。

Name: 米原康正
DOB: 1959
POB: 熊本、日本
Occupation: 編集者 / アーティスト
http://loveyone.com/
https://www.instagram.com/yone69harajuku/
http://weibo.com/u/185156334

RECOMMENDS