住まい手を取り巻く環境から、そのあるべき姿を探し出す。阿部勤の考える品格。(4/4)

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INTERVIEWS:
阿部 勤 / 建築家


「建築というのはジャーナリズムのためではなくて、それを使う人のために作る」坂倉準三の品格とはどういったものだったのだろうか。そしてその坂倉イズムを阿部勤はどの様に血肉としたのだろうか。建築家を志すきっかけから仕事との向き合い方、北タイに見る日本文化の原点の話までを伺った。

錬金術師alchemistと建築家architect

入学した私立武蔵学園には玉虫文一先生が所長を勤める根津化学研究所があり、後に理科大教授になった目黒謙次先生もおられ化学教育に力をいれている学校でした。又、当時世界的にも有機合成化学全盛の時代でした。ドイツのヴァルター・レッペという人が、ビニール、ナイロン、プラスチックを合成する『レッペ反応』というものを考え出しドイツの有機化学が非常に発達し、これからは有機化学が世界をリードする時代がくると。第二次大戦は、ドイツから有機化学のデータを奪るための戦争だともいわれていて、アメリカがドイツに勝ち真っ先に押さえたのはその有機化学の資料だったといいます。アメリカがそれを持ち帰り、アメリカがこれだけ隆盛になったともいわれています。

そのようなこともあり、化学や練金術に興味を持っていたので、化学部に入りました。化学部の部長も務め、化け学者とし将来を嘱望?されていました。大学は当然、化学志望でした。なぜか早稲大学だけは建築科が良いという噂と、試験にスケッチがありそれで点が稼げるかもと建築科を受験しました。ところが意に反し化学を目指した大学は全滅で受かったのは早稲田大学建築科でした。化学者とし将来を嘱望された身としては迷ったのですが建築を選びました。ちなみ錬金術師はalchemistで建築家はarchitectと少し似ています。しかし化学の道に進まず、結果的には良かったです。というのも人間の作り出した合成化学物質は朽ちることなく、今や公害の元になっています。開発途上国の綺麗な水辺を見ると、ポリ袋プラスチック製品が朽ちること無く環境を汚染しそれを魚や鳥が食べ死んでいます。それに反して今つきあっている木・石・土といった素材は朽ちて自然に還るわけです。

住まい手を取り巻く歴史環境、自然環境、社会環境から、そのあるべき姿を探し出すということ

大学三年生になった時、坂倉準三設計の横浜シルクセンターが完成間近で雑誌発表用の図面を描くアルバイトをやりました。現場を克明に見て図面を起こすという作業でしたが、その時はじめて建築というものを意識してじっくり見ました。そして建築の素晴らしさというのかな、坂倉準三の建築の素晴らしさを感じました。ちょうどその年に雑誌『建築文化』が坂倉準三特集を出して、先生の文章、写真、作品を見て感動して、できれば坂倉事務所に入りたいと思いました。試験はなく、坂倉準三本人と面接をし、ラッキーなことに採用されました。

坂倉準三は「建築は、人のために作る」という考えを一貫して持っていました。ジャーナリズムでどうしても目立った建築を取り上げがちですし、建築家も奇をてらったウケ狙いの建築を作りがちです。ところが坂倉準三は、そういうことにNOを言いまして、建築というのはジャーナリズムのためではなくて、それを使う人のために作るということを、ことある毎に言っていました。建築の進歩を考えれば新しい提案をし、時代を変えていくような建築家も必要です。けれど大部分の建築は地道に作られるべきだと思っています。建築には便利さ使い勝手といった機能面と強度、耐久性、空気、水等の技術面の考察が必要です、それに加え大切なことは、人の心との関係、即ち意匠です。この「機能」「技術」「意匠」が総て兼ね備えて初めて建築となれるのです。

*建築文化(雑誌)
彰国社が発行していた建築専門雑誌。毎号テーマを組んでいる。2004年12月号(通巻674号)で休刊。

「建築は、人のために作る」坂倉準三という品格

当時、坂倉準三の設計した住宅は松下幸之助、藤山愛一郎、松本幸四郎、岡本太郎など錚々たる方々の住まいでした。ある時、比較的規模の小さい住宅設計依頼がきました。私は入って一年目でしたけれども忙しかったせいか「阿部くん、担当して下さい」ということになりました。ラッキーでした。若いのに担当者とし坂倉準三と直接打合わせる機会に恵まれたわけです。坂倉準三自身が設計し、スケッチすることはほとんどありません。担当者が設計したものを坂倉準三がチェックし「もうちょっとスッとなりませんかね」とか「もっとカチッとなりませんかね」と漠然とした抽象的な言葉で表現するわけです。担当者各々が独自に設計しているのですが、不思議と坂倉カラーという何か品格みたいなものが一貫して漂うわけです。

私の設計のやり方は、自分で設計するというよりは、そこにあるべき姿を探し出すというスタンスでやっています。住い手によって求めるものは様々です。その取り巻く歴史環境、自然環境、社会環境から、そのあるべき姿を探し出すということです。坂倉準三の「建築は、人のために作る」ということかもしれません。ですから私は、できるだけ多くの案を作るようにしています。テーブルに乗せる場合の数が多ければ多いほど、あるべき姿に近づく可能性が多いと考えています。

プレファブと伝統建築

坂倉建築研究所で私は、北海道ホテル三愛、神奈川県新庁舎などを担当してからタイの仕事を担当しました。タイの文部省が世界銀行からの借款で、タイの職業教育を改善しようという大きなプロジェクトでした。その頃タイは開発途上ですから農業と工業の技術、教育が急務だったわけです。そこで農業学校と工業学校の充実を計ろうということで、タイの国中、北はチェンマイ、南はハジャイに25校を建設する大きな意義深いプロジェクトです。世界中の建築家に応募を要請しました。日本からは丹下健三など何人かが応募して、坂倉準三が選ばれました。

当時、学校建築のプレファブ化が世界的に企画されていましたし、25校を一度に作るということで、当然プレファブ化、規格化、標準化して、大手鉄鋼会社と組み、日本の工場で作ってタイに持ち込んでバタバタバタッと組建てようという計画でした。坂倉準三と同時期に、コルビジェのところにいたジャン・プルーヴェも標準化など技術的なことをやっており、坂倉準三も戦前A型という標準化住宅を設計など、標準化には意欲を燃やしていました。しかし調査するとタイには独自の文化があり、環境に即した立派な伝統建築がたくさんあります。そういう素晴らしい国に外国から土足で乗り込んで、こちらの都合で作るというのは間違いじゃないかということに気が付いたわけです。もともと坂倉準三は常に人のために作ると。そういう強い意志を持っていましたから、タイ人のための、タイ人による、タイに定着しうる建築を作る方針に切り替えたわけです。

北タイにみる日本文化の原点

タイ国中を調査して回り、ここに来たら外国人は誰もいないだろうという地方に行くとキリスト教の牧師さんとドイツ人のエンジニアがいるのです。ドイツの機械を使って、タイ人に技術を教えているわけです。それを学んだ学生は起業する時にドイツから機械を買います。日本は機械の援助はするけど、使い方が分からないだとか、メンテナンス体制が整っておらず使われていないまま放置されているケースもありました。日本の海外駐在員の多くは腰掛け、あわよくば二年、三年で本社に戻りたいとそういったスタンスです。しかしドイツ人はそこに骨を埋めるつもりで来ています。英国の植民地なんかもそうです、腰掛けではなく、そこに住みついてしまっている。ですから英国文化が世界中に根付いているわけです。

このプロジェクトは、大変でしたけど楽しかったです。当時は道路が整備されてなくて、日本でいう東京京都を結ぶ国1のような道路。古都チェンマイとバンコクを結ぶ道が今でこそ高速ですが、当時は砂利道でした。そこをランドローバーで走る。その時のノスタルジーでランドローバーのディフェンダーを今でも乗っています。橋のない川もありました。イカダに車を乗っけて渡ったりもしました。最高の経験でしたね。何年か経ってタイに訪れましたが、見事にタイの学校として定着していました。

タイに常駐すると、素敵な場所なので魅せられ住み着きたくなります。非常に危険です。限度3ヶ月です、手遅れにならないギリギリのところで東京に戻って、タイ国病を治し戻るのです。それを繰り返しました。結果、辛うじてタイに永住しないですみました。特に北タイの風景は昔の日本に似ています。日本が単一民族というのは真っ赤な嘘で多民族の混血国家なわけです。原住民は大陸から入ってきた民族に追われ、北に追いやられたのがアイヌ人、南に追いやられたのが高砂族だと聞いたことがあります。中国、朝鮮からだけではなく、もち米文化圏、黒潮文化圏という文化が北タイ、雲南省から台湾を通って入ってきています。北タイには日本文化の原点があります。司馬遼太郎が雲南省に行った時「ここは日本だ」と言ったといいます。藍染の野良着、もち米、田園風景、軸組構造を屋根で覆う風通しの良い住まい、八丈島の倉はそっくりです。「私の家」はそのような風景の中で設計しました。(了)


☞住まいは買うものではなく、一緒に創るもの。建築家・阿部勉の美徳。(1/4)

☞変わるものと、変わらないもの。そして変わってはいけないこと。正しく古いものは、永遠に新しい。(2/4)

☞モノがない時代の豊かな生活。建築家・阿部勤のルーツ。(3/4)

☞住まい手を取り巻く環境から、そのあるべき姿を探し出す。阿部勤の考える品格。(4/4)


1936年東京都生まれ。1960年早稲田大学理工学部建築学科卒業後、坂倉準三建築研究所入所。北野邸、佐賀県体育館、呉市民会館、ホテル三愛、神奈川県庁舎、タイ国文部省の要請により、農業高等学校、工業高等学校、及びカレッジ25校の設計管理に従事。戸尾任宏、室伏次郎と主宰した株式会社アーキヴィジョン建築研究所を経て、1984年に室伏次郎と共に株式会社アルテックを設立。私の家、蓼科レーネサイドスタンレーなど代表作は多数。個人事務所として最多6度の「建築25年賞」受賞。早稲田大学理工学部建築学科非常勤講師、東京芸術大学芸術学部非常勤講師、女子美術大学非常勤講師、日本大学芸術学部非常勤講師を歴任。

Profile
Name: 阿部勤
DOB: 1936/7/7
POB: 東京、日本
Occupation: 建築家
http://abeartec.com

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