モノがない時代の豊かな生活。建築家・阿部勤のルーツ。(3/4)
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INTERVIEWS:
阿部 勤 / 建築家
豊かな生活とはなんだろうか。経済的余裕、自由な時間があること、没頭できることがあること・・・価値観はいつの時代も曖昧。ひとつ言えるとすれば、他人の価値観ではなく自分の価値観を持って生きることだと思うのです。受け身の知識や教養が求められる時代は終わり、そのあとにくる個性という独創性が求められる時代。建築家・阿部勤の生い立ちから今の時代に必要なことが見えてくる。
先⽣からもいじめられて、たまたま絵が上⼿い劣等⽣だった。 (笑聲)
私は小石川生まれで3歳の時に練馬区の桜台に移り住みました。一日中、火鉢にあたって黙っている引きこもりっ子だったと聞いています。小学校は師範学校の附属でしたから、みんな比較的に両親が教育ママで、親が面倒を見る様なタイプの家庭が多かったです。ところが私の母親は放任主義で宿題もあまり強要せず服装も子供まかせでした。そんなでしたから先生が快く思わなかった。先生が僕のことをダメなやつだとみなすと、子供たちは先生の影響を受け、どちらかと言えばいじめられっ子だった記憶があります。
私は、たまたま絵が上手で絵の先生が認めてくれて六年生のクロッキーの授業に「阿部くんを貸してください!」と、授業中に私一人を連れ出して上級生と一緒に絵の授業を受けさせたこともありました。そうすると担任の先生はますます面白くない。先生からもいじめられて絵が上手い劣等生だった。絵の先生は色々面倒を見てくれた、モノのない時代に先生が雑紙を集めて紙縒(こより)で綴じスケッチブックを私のためにわざわざ作ってくれた。それで一生懸命スケッチしましたね。
戦争が激しくなった二年生の時、栃木県に疎開をしたのですがそれが良かったです。東京では劣等生でも田舎の学校にいくと、九九ができるだけで優等生です。尚且つ担任の先生が絵の先生で「阿部くん、戦争の絵を描きなさい!」とか言われて黒板いっぱいに戦争の絵を描いたりもしました。
当時の子供たちは「将来、君は何になるか?」と聞かれると「僕は海軍大将になります!」とか「陸軍元帥になります!」とかそんな解答をするわけです。ところが私は戦争が嫌いでね、戦争が嫌いというか死ぬのが怖かった。それで「阿部くんは、何になりたい?」と言われて「僕は軍医になりたい!」と。先頭で戦わないで後方で怪我人の面倒を見ている、それが比較的に安全ではないかと子供心に思ったのでしょう。それでも先生に認められ皆からも一目置かれ、喧嘩は強くなかったのですが、ガキ大将を手下にして院政を敷くようになりました。
戦争体験と日本人の付和雷同
怖い体験もしました。「ウーッ!ウーッ!」と空襲警報が鳴り家に走って逃げる最中に、もうアメリカ戦闘機のグラマンが来てしまってグーっと急降下してきました。「伏せろー!」って伏せて、もう駄目だと思った瞬間に怖いもの見たさで見上げると、戦闘機がすぐそこに迫っていて操縦士が見える距離です。機銃掃射をやられると思ったらニコッと笑って上空に去っていきました。疎開先が太田の軍事工場の近くで米軍が途中遊びがてら爆弾落としたり子供を狙ったりしていたらしいです。家の前が医者で足を吹き飛ばされた人とか怪我人がよく運びこまれていました。
あるときB29が二機で偵察にきました。日本の高射砲はほとんど当たらないのですが、たまたま当たってヒラヒラっと落っこちて、それが下の飛行機にも当たって二機落ちました。その墜落現場を見に行くと機体内部は真黄色の原色に塗られていてベティとか漫画がたくさん描いてありました。こちらはもう食べるもの食べないで、ひもじい思いをして「欲しがりません勝つまでは」と我慢している状況です。鬼畜米英という教育を受けていたのですが何か違うなと思ったのを覚えています。
死者10万人以上出した1945年3月10日の東京大空襲の時は、疎開先の栃木県にいました。南の空が赤いわけです。これは火事だ!とみんな走って見にいくけれどいくら行っても火事場にはたどり着かない。暫くすると、あれは東京の火事らしいぞ!とうわさが入ってきました。栃木県と東京は百キロ近くも離れているけど、それがもう近くだと思うくらい真っ赤に空が燃えていました。
幸運にも親類に戦死者はいなかったけど、終戦直後に親父の部下で戦争に取られて帰ってきた人が、僕の家を訪ねてきましたが、もう痩せこけ、目がギョロギョロとしちゃってニューギニアに行っていたとのことで、はっきりは言わなかったけど、食べられる物は何でも食べたと言っていました。生きたいという生存意欲の方が倫理よりも強いかもしれません。
多くの軍人は天皇陛下万歳と、御国のために死ぬのが名誉だと死んでいったけれど、アッツ島玉砕といって島で軍人が全員自決する事件もありました。特攻隊に行っても突っ込まないで近くの無人島に不時着する軍人もいたらしい。後でも述べますが1960年代後半にタイ国に学校を建てるプロジェクトに関わっていました。
現場監理のためタイの東、カンボジア国境近く象で有名なスリンを度々訪れました。現地の工事施工業者が私の身の回りの世話のために年配の男性を付けてくれました。本当に親切に献身的に世話をしてくれたのですが、ある時その男性が突然日本語を喋りだしました。話を聞くとその男性は実は日本軍人で詳しい事情は聞きませんでしたが、日本に帰ることができずタイに住み着いたとのことでした。今はタイの女性と結婚し、タイ人として生活しているとのこと。終戦後20年近く経ち、私が初めて会った日本人で、自分が日本人であることを明かすつもりはなかったのだが、日本語を喋りたくて我慢しきれなくなったと涙ぐんでいました。
横井さんや小野田さんなど何人か報道されましたが、日本に帰れなかった軍人はたくさんいたのではないかと思います。教育や権力の力は怖いです。物事を判断できる有識者がたくさんいたのに、その全員が一方向を見て突き進んでしまった。人間、特に日本人には付和雷同といった性があるのかもしれません。
家という囲い。地域という囲い。日本という囲い。地域社会と建築の関係性。
疎開体験は、空襲など辛い経験もしましたけど東京ではできない貴重な体験もしました。田舎にもガキ大将がいて、「今日は、掻い掘りをやるぞ!」という指令が出るとバケツを持って集合します。六年生くらいの子でしたけど凄く大きい大人に見えました。そのガキ大将が主導して「ここを堰き止める!」と、みんなで石を運んで堰き止めるわけです。堰き止め、川の流れを変えて池を作って、その水を掻き出して魚を獲るのが掻い掘りです。ガキ大将がそれぞれ働いた出来高で魚を分ける小さな共産社会です。僕は下っ端だから二、三匹貰って喜んで帰り、お婆ちゃんに焼き魚にしてもらう。お腹が空いたらどどめ(桑の実)を食べたり、川岸のスッカンボをかじったり自然の中には色々なものがたくさんありました。神社でセミを獲ったり、木登りしたり。神社が鎮守の森として子供たちに限らず、その土地の地域社会として神社が社会の中心だったわけです。
日本には村社会というものがあり各々の家はオープンで鍵なんか閉めない。誰でも他人の家にズカズカッと上がり込みます。私が一人で留守番していると隣の酒屋のおじさんが入ってきて、長火鉢の前に座ると自分で勝手にお茶を沸かし「勤、そこに座れ!」などと言って説教をはじめる。そういう何か他人の家も自分の家もほとんど関係ない村社会というものがありました。知恵遅れの乞食のような人が村には必ず一人か二人はいて、村の隅っこに住んでいて村を回ると色々もらえて生活ができる。大体「何何やん」という愛称がついていて、みなから温かく見守られていた。村社会が知恵遅れの人を養っていました。(昔の日本は)各々の家はとてもオープンだけれど村という社会の囲いがある。その中は安全で村という社会に守られているという感じがありました。こういった体験が後に私が作る住まいの空間にも影響を与えています。
今の時代は、敵がいないですね。自分を守らなくてはならないとか、そういった体験がほとんどないでしょう。私たちの時代は、戦争ということで敵がいて、敵から自分を守らなくてはならなかった。そういう体験をしているので住まいにしても守られたいという意識が強いように思います。空襲警報が鳴ると土に掘った防空壕に逃げ込む、そこは安らぎの空間でした。
私は小学校の低学年時代に弱虫でいじめられていましたから、茂みの陰に隠れて陣地のようなものを作り、ガキ大将の様子を伺いながら遊んでいました。そこは見え隠れのできる、安らぎのある場所でした。動物の巣の穴グラと同じです。ビーバー、リス、等の小動物や鳥等弱い生物ほど素敵な巣を作ります。ライオンや虎の巣を見たことがありますか?ゴリラは寝る時、あの大きなお尻でブッシュ(灌木)に凹みを作り、最後に葉っぱを頭に乗せるという話を聞いたことがあります。隠れたいと言う動物本能が残っているためかもしれません。建築家も弱い人ほど良い住まいを設計できるかもしれません。ガラス張りの隠れることのできない住いを設計する建築家もいますが、強いと誤解しているかもしれませんね。人間は本来弱い動物なのですから。
*「ブラマンダ」
右はインド修行僧が磨いた石。左は自分の角をとるために阿部さんが磨いた石。
強く才能豊かなクリエイターだった母の想いで
終戦を迎え小学校三年生で疎開から帰って来た私は、田舎の自然の中を跳びまわり、あの弱虫のいじめられっ子は逞しい子供になっていました。桜台の家はかろうじて残りましたが、2軒先の通りを隔てた向こう側は焼夷弾爆撃で一面焼け野原でした。一説に依ると日本に建築の文化をもたらし、日本に数々の名建築を作った建築家が戦争で米国に帰り米軍に日本の街は木と紙でできているから、焼夷弾が有効だと提言したということらしいです。焼け野原は、子供にとって絶好の遊び場でもありました。焼け跡には色々残っていてそれを拾い集めた。焼夷弾の不発弾もあり、今思えばとんでもなく危険な話しだが、信管を外し、蓋を開け中のゼラチン状の油を取り出しそれを木に塗りお風呂の釜にくべ風呂を沸かしたりもしました。
戦後の非常時、母親は強かった。配給の食料では足りないので大きなリュックサックを背負い満員買い出し列車に乗り地方に買い出しにいくのです。昔は行儀見習いを兼ねた住み込みの女中さんがいて、彼女らはたいがい地方の大きな農家出身でした。その伝をたどり、家の衣類を持っていき食料と交換したのです。私の母は強いだけでなく、専業主婦でしたが才能豊かなクリエイターでした。
栃木県の足利に生まれ、今は薬科大学になっていますが東京の薬学専門学校に進学し、ライダー先生というドイツ人の家に下宿し、ヨーロッパの文化を身に付けたようです、絵も巧く日本画を描いていました。染色、洋裁、和裁も得意で、娘のために自分の着物をばらし、古代紫に染め直し、裾に刺繍を施し見事な訪問着に仕立て直したりもしました。料理も得意でオリジナルなレシピもたくさん持っていました。例えばみょうがを薄切りの豚肉で巻き卵を潜らせ、さっと揚げた料理など未だ姉妹の得意料理になっています。戦時中に雪が降ると、木の桶に雪を一杯詰め、その中に茶筒を立て、雪に塩をいれ、茶筒に牛乳と卵、砂糖、バニラエッセンスをいれ、「勤!かき回して」と攪拌機の役割をさせられアイスクリームを作ったりもしました。また部屋の模様替えが趣味で箪笥や家具を小さな体で、一人で動かし、しょっちゅう模様替えをしていました。戦後モノの無い時代でしたが豊かな暮らしを創り出していました。
☞住まいは買うモノではなく、一緒に創るモノ。建築家・阿部勤の美徳。(1/4)
☞変わるモノと、変わらないモノ。そして変わってはいけないモノ。正しく古いものは、永遠に新しい。(2/4)
☞モノがない時代の豊かな生活。建築家・阿部勤のルーツ。(3/4)
☞住まい手を取り巻く環境から、そのあるべき姿を探し出す。阿部勤の考える品格。(4/4)
1936年東京都生まれ。1960年早稲田大学理工学部建築学科卒業後、坂倉準三建築研究所入所。北野邸、佐賀県体育館、呉市民会館、ホテル三愛、神奈川県庁舎、タイ国文部省の要請により、農業高等学校、工業高等学校、及びカレッジ25校の設計管理に従事。戸尾任宏、室伏次郎と主宰した株式会社アーキヴィジョン建築研究所を経て、1984年に室伏次郎と共に株式会社アルテックを設立。私の家、蓼科レーネサイドスタンレーなど代表作は多数。個人事務所として最多6度の「建築25年賞」受賞。早稲田大学理工学部建築学科非常勤講師、東京芸術大学芸術学部非常勤講師、女子美術大学非常勤講師、日本大学芸術学部非常勤講師を歴任。
Profile
Name: 阿部勤
DOB: 1936/7/7
POB: 東京、日本
Occupation: 建築家
http://abeartec.com
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