耳に突き刺さる音。久保田麻琴(2/2)

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INTERVIEWS:
久保田 麻琴/ミュージシャン・プロデューサー・録音エンジニア

常にホンモノの音を追求してきた氏が考える「耳に突き刺さる音」は、創る側の真剣さと優しさの土台の上にあって、そもそも人の持つ根源的なスピリットに触れるというゴールが聴く方にも無意識の中にある。だからこそ心が鷲掴みにされる。

音が先

うちは祖父さんの代から*映画館経営をしていました。祖父さんがスタートした大正の頃は、弁士がいて楽師がいる*サイレントムービーの時代です。昭和になって東映、東宝、大映の映画と興行をやっていました。美空ひばりや春日八郎などの歌謡曲の興行やったりとかね。料亭で祖父ちゃんと森繁久弥さんが宴会をしていて、何故か小さい私が同じ部屋にいたことを覚えています。

そういう環境で育ちましたから、映画が自分の脳のフォーマットなのでしょう。映画は、演技とオーディオが両方一緒に伝わるので、音はとても重要。その頃の映画館のスクリーンの後ろには、アメリカ製のウエスタン・エレクトリックとかアルテックのスピーカーが座ってました。オーディオ・マニアに言わせれば、あの時代がピークだそうです。私が3代目を継がなかったから廃業になりましたけど、スピーカーは全部クズ鉄で放出。今考えるともう残念でしょうがない(笑)。マニアには怒られますね。結局全部またアメリカに流れたんじゃないかな。ありがちな話です。

*サイレント・ムービー(無声映画)
フィルムに音がなかった時代、映画を説明する弁士と、生演奏をする楽師が存在した最先端の技術は映像の魅力。無声映画は音がない分、観客をより意識したカットの工夫や俳優の演技力がより必要な分、作品の創造性や芸術性において、ライブであるリアルなエンターテインメント性があった、それは現代人が忘れてしまいがちな大切な要素でもある。

*東洋館
大正12年にできた活動写真館「東洋館」。帝国キネマ、マキノ映画と契約。久保田麻琴の祖父・久保田正は北陸興行界の顔役だった。

堀江節子『総曲輪物語-繁華街の記憶』桂書房, 2006年

Too Ra Loo Ra Loo Ra

後から解ったことですけど映画館を始めた祖父さんの父、つまり曾祖父さんは、江戸末期に生まれたカトリックでした。そもそも金沢の前田家は武家でこっそりキリシタンと関わった部分がある。高山右近を25年匿ったくらいだから。前田が最初に石川を治める時に入ってきたのが七尾湾です。その七尾の本行寺は幕府も入れない天皇直轄地であり、そこを前田藩が実質管理していて、実は*セミナリオ的なイエズス会の基地だった。貿易と蘭学、医学、兵学なんかの研究をしていた場所だったんですね。徳川には一切内緒です。富山の薬はその名残りです。

金沢の前田藩の墓地の隣には八家老の墓地があり、不思議なことに更にその横にくっついたようにキリシタン墓地があります。曾祖父さんのお墓もね、そこです。生まれは日本ではあったはずけど、種はちょっと違ったかもしれないですね。そんなこともあって私は隠れ的な思想なのかも(笑)。子供の時からいつも誰かとぶつかっていたし、私はどうしてこんなに変わっているんだろう?とか自分で思っていました。いつも権威を見るとイラッとくるとかね(笑)。

ビング・クロスビー主演の映画『我が道を往く』で流れるのが『Too Ra Loo Ra Loo Ra』です。アイリッシュの老神父と、歌とウィットで厳しい環境を切り拓いていく若神父が教会を再建する内容です。ある時、苦難に遭った老神父に、故郷アイルランドの子守唄を若神父が歌ってあげるシーンがあります。それがアイルランドの子守唄『Too Ra Loo Ra Loo Ra』です。私の親父は、日本の子守唄を歌うと泣く私に、アイリッシュの子守唄を歌ったんです。日本の子守唄はほとんどが悲しいマイナーで、どうも合わなかったようで…。

*高山右近 
戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。代表的なキリシタン大名として知られる。前田利家の家来として小田原の合戦に参戦し、築城や茶の湯に才能を発揮。2017年にローマカトリック教会の福者に列された。

*セミナリオ
イエズス会の一般教育機関で,ラテン語・ポルトガル語・国語・歴史・数学・音楽・洋画・銅版術などを教授。ヴァリニャーニが1580年有馬、年安土に開設したが、のち安土のセミナリオは有馬に合併された。禁教の強化に伴い、各地を転々と移動し1614年長崎で閉鎖。

Too-Ra-Loo-Ra-Loo-Ral – Bing Crosby (his original 1944 version)

大人になった私がザ・バンドの『ラスト・ワルツ』の現場でのこと、ロビー・ロバートソンの「カモン、アイリッシュ・カウボーイ」という紹介で出てきたのがヴァン・モリソンだった。彼とリチャード・マニュエルがいきなりアイリッシュ・ララバイを歌い出したのは、ビックリでした。その時、私は子供のとき以来その歌を聴いたわけだ。

祖父さんの映画館のマークは、三和銀行みたいな三つ巴が重なってるマークでした。ある解説では、このマークのことをアイリッシュクロスと言うらしい。私は教会にはあまり行かないですけど、体質としてはあるんだと思います。ハリー(細野晴臣)とマック(久保田麻琴)でもカバーもしましたし、私にとっては一種のソウルフードなんでしょうね。

The Band – Tura Lura Lural (with Van Morrison)

ダイレクト

お祖母さんは、若い頃プロの芸者でしたから三味線が上手かった。今でいうDJみたいなものです、つまり場を盛り上げる人です。喋りながらバラバラの三味線をマシンガンみたいに組み立て、チューニングして、その場をエンターテインメントするっていう。いま考えれば余裕中の余裕だった。歌も踊りもあまり積極的ではなかったけど、三味線は自信あったようです。

私は、いわゆる国家的な伝統芸能はあまり縁がない。一方、例えば宮古島の神歌。これは人に見せるものではなく、神様へのお祈りです。この驚くような深みには絶対的に魅かれます。そう、、民謡協会的になったものにはどうもときめかないんです。リアルで、心にダイレクトに来ないと…。不意にドカドカ系(一拍子系)の阿波踊りに出会って泣いちゃうようなこともありますけど。

ビートニク

10代の私はジャズが大好きでした。家にジャズのレコードがあったし、家が経営するバーではジャズ、ラテン、あとムードサックスとか当時の音楽が流れていました。そのうち中学生にもなれば、マイルスの異常なかっこよさに惹かれたし、植草甚一も読んでいましたから、未だにベーシックは50’s臭というかビートニク的な価値観があるかも(笑)。

ヒッピーな時代もありましたけど、サンフランシスコだけじゃなくて、やっぱりニューヨークはたくさん歩きました。グリニッジヴィレッジのビートな痕跡を見たかった。NYのフィルモア・イーストは最高のロック・ベニューでした。ジョシュアの照明も良かったし、何よりもビル・グラハムのブッキングも音も本当に素晴らしかった。ほんのちょっと前まではは、ジョビン、ジルベルト、セルメンのブラジルにハマってて、ロックにいくような奴じゃなかったのにね(笑)。

Fillmore East 1969, Joshua Light Show

ロックというか72年にリリースされた『ガンボ』で、ドクター・ジョンがニューオリンズのR&Bの古典をとても上手くカバーしたんです。私とか細野さんとか大瀧詠一もそうだけど、そこで腑に落ちた。もうロックンロールのかっこいい要素がすべてそのアルバムには詰まっていましたから。それはリズム、つまりタイミングなんです。それと発声、フレージングに喉の鳴らし方。そのすべてにコクがある。ニューオリンズはとても濃い。

例えばリトル・リチャードはジョージア生まれだけど、バックはリー・アレン、アール・パーマーなんかのニューオリンズのセッション・ミュージシャンがやっています。ほとんどの曲がそうだと思いますけど、ベーシックはセカンド・ラインなんです。「♪ダンツッツ・ダンツッツ・ダンツッツ・ダンツッツ…♪ドドドカ・ドカドカ・ドンチッタッ・ドンチッタッ…」叩いてるうちに変化していきます。それがエンジンなんですね。それがロックンロールの発火点です。

*リトル・リチャード
ご存知キング・オブ・ロンクンロール。55年スペシャリティからのデビューシングル『トゥッティ・フルッティ』の冒頭でシャウトする♪wop bop a loo bop a lop bom bomははセカンド・ラインのリズムを口で表現したものとも言われている。

*リー・アレン
デイヴ・バーソロミュー、ポール・ゲイトゥンのバンドで活躍し、ファッツ・ドミノ、ロイド・プライス、リトル・リチャード、スマイリー・ルイスなど40年代から60年代までロックンロールのセッションにはほぼ参加したというサックス奏者。

*アール・パーマー
初レコーディングはファッツ・ドミノの『ファット・マン』ここでパーマーは、バック・ビートを強調した演奏をする。このリズムを説明するために「ファンキー」という言葉をはじめて使ったことから分かるようにアメリカの音楽史はアール・パーマーと共にあったと言われるほどの偉業を残した。

テンダー

私は、カブくのが好きな方ですし、キッチュが好きですから「まぁまぁまぁ。お前ら、殴り合ってんじゃないよ。偉そうなこと言うのはダサイよ」みたいなね(笑)そういうところがあります。だからヨーデルとか、一回カントリーが終わって、ロック的な価値観で言うとダサいモノになったけど、私的には、そのダサイと思ってるとこがすごくダサイんで(笑)。

私は、あらゆる教条主義的なものがすごく嫌いです。そういうものに対して心の中には常に反発があるし距離を置きます。私は、テンダーで優しいことが好きなんです。常にどんな時でも人に対する希望を持ちます。

どんなことでもこの宇宙のためになることだったら、私はそれを善とします。でも人間が人間を抑圧したり、侵略したり、それから一種のブラックマジックみたいなこととか、権威主義とか、そんなもので人が人を押さえるというのが一番嫌いなことなんです。

耳に突き刺さる音

今の日本人は、抗議するとか闘うのが苦手ですね。ずっと変わらない。原発事故があっても変わらない、不思議ですね。何かされたんじゃないかと思うほどに、戦前とまったく人種が違うようです。60年代は、戦前の人たちが活躍したから60年代が存在したわけです。小津にしても黒澤にしても、ナベプロも、みんな戦前スタートした人たちでしょう。悪いけど、我々の団塊の世代でショボくなった気がする。

映画『スケッチ・オブ・ミャーク』の整音をやる時にたくさんの映画を観て、その音を全部チェックしました。その時に分かったのが65年以降から徐々に音が薄くなるということだった。60年代の大映の音の移り変わりを聴いただけで分かります。『悪名』『座頭市』あたりとかね。ややノイジーだけど、音がめちゃくちゃ刺さる。65年以降は、アフレコも減り出して、効率良く現場のマイク録りした感じの音になっていく。それはエンジニアもそうだし、大映の*永田雅一、彼らの真剣さがまったく違ったんじゃないかな。ま、それ以上に映画の衰退によって予算が削られてしまったことでしょうけどね。

*永田雅一 (1906年 – 1985年)は、日本の実業家、映画プロデューサー、プロ野球オーナー、馬主。大映社長として『羅生門』などを製作。プロ野球大映球団のオーナーとなり、パ・リーグの初代総裁。

Sketches of MYAHK Trailer

芸能の本質

発端は1964年の東京オリンピック。そこでガラッと変わってしまう。テクノロジーで何でもできるという甘い考えになっていくんです。音が適当になっていく代わりに、カメラの数が増えて演出が器用になっていく。小手先のトリックです。それに連れて映画の成績が落ちていったわけです。

そもそも映画は、どういうものかというと、絵が動いて、音が出るんですよね。それは目で映像を追っているけど、実は心を掴むのは音です。だから音がすごいと、映像は何倍もよく見えるし、ストーリーも入ってきます。我々の世代から、その感覚がより視覚的になってきました「別に、音なんかいいだろう」ということをずっと続けてきてしまった。

映画に対する真剣さとか、その響きを取り戻せば70年以降の日本映画も何倍もパワフルになったはずです。映画音楽もだけど、それ以上に台詞や現場音なんかも含めて音全体、オーディオが大事です。映画『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ』なんかもうめっちゃくちゃ音が良いよ!年寄りの音楽だからネタは古いけど、音楽で言えばプリンスくらいのパキパキな90sな音質。だから成功したんです。例えば、タランティーノはやっぱりすごい、彼の映画、音の拘りは半端ない。しかもアナログライクで暖かい、機材のこともよく分かってる事が伝わってきます。やっぱり繰り返しみる映画って音が良いんです。

BUENA VISTA SOCIAL CLUB Trailer

真剣

あまり見ないけど邦画の音声は、リミッターやコンプレッサーをうまく使えてない。その辺おっとりしすぎ。たまに字幕つけてくれと言いたくなる様なのがある。自然主義なのかあまり触らない、触ると誰かが怒るのかな(苦笑)。映画作るときに、スタッフが制作スピリットのコアを共有できていない。それが一番大きな問題。それは60年までの日本映画は、スタッフも監督も映画会社もみんな分かった上で創ってた。向かってる場所が同じだったのでしょう。

演者もそう、例えば勝新に関して言えば発声がもうアスリートか格闘技みたいです。口先だけじゃない。我々以前には、頭抜けて確信的な世代がありました。彼らは生命ということに関しても精神ということに関しても真剣だったかな。ま、色々あったけど濃ゆい時代でもあったのでしょう。(了)

☞人が生きた痕跡のある音。久保田麻琴(1/1)


Profile
久保田麻琴(くぼた・まこと)

同志社大学在学中より、「裸のラリーズ」のメンバーとして活動をはじめる。1973年に東芝よりソロアルバム『まちぼうけ』を発表し、その後、夕焼け楽団とともに数々のアルバムを発表、エリック・クラプトン初来日公演の全国ツアーにオープニングアクトとして参加するなど精力的にライヴ活動も行う。

またアレンジャー、プロデューサーとして喜納昌吉の本土紹介に関わり、チャンプルーズのアルバム『ブラッドライン』ではでライ・クーダーとも共演。80年代にはサンセッツとともに海外でも広く活動し、ジャパンの英国ツアーでのオープニング、オーストラリアではツアーや多くの野外フェスでトーキング・ヘッズ、ユーリズミックス、プリテンダーズ、インエクセスなどと共演。84年にはシングルが豪州でトップ5入りを果たす。

プロデューサーとしてザ・ブーム、ディック・リー、Monday満ちる、エルフィ・スカエシ、浜田真理子、濱口祐自など多くのアーティストのプロデュースを手がける。95年には宮本亜門演出によるミュージカル“マウイ”の音楽監督を行う。99年には細野晴臣とのユニット、”Harry and Mac”で久々にロック・シンガー・ソングライター・としてカムバックし、2000年にはさらにニューオリンズやウッドストックで、The Bandのレボン・ヘルムやガース・ハドソンなどと共演したソロ作品『ON THE BORDER』を発表。2001年には池田洋一、そしてマレーシアのMac Chew、Jenny Chinらとチームを組み、Blue Asiaプロジェクトをスタートさせ数枚のアルバムを発表、それぞれが欧州55名のラジオDJが選ぶwww.wmce.deで上位にランクイン。”

2007年頃より宮古島を中心とした南島の音楽や、阿波踊り、ブラジル北東部音楽を紹介するCDを制作。著作には岩浪新書”世界の音を訪ねる”がある。宮古島の神唄に焦点をあてたドキュメンタリー映画、”スケッチ・オブ・ミャーク”を企画原案、出演、製音を行う。同作品は、スイス・ロカルノ国際映画祭での正式招待を受け、ドキュメンタリー部門スペシャルメンションを獲得。2012年より全国ロードショーは約3万人の観客を動員。また大友克洋の最新アニメ作品”火要鎮”(ショートピース)のサウンドトラックを制作した。2024年には同監督のアニメ、”AKIRA”のリミックス・アルバムの制作にリミキサーとして関わる。CM制作、コンサートやイベントの企画制作も行い、DJや講演、ラジオ番組への選曲なども行っている。(日本コロムビアオフィシャルサイトより)

久保田麻琴オフィシャルサイト https://www.makotokubota.org
久保田麻琴オフィシャルインスタグラム https://www.instagram.com/2raloo/

久保田麻琴と夕焼け楽団 × mocgraph ロゴTシャツ

久保田麻琴が「mocgraph(モックグラフ)」に登場!「人が生きた痕跡のある音」「耳に突き刺さる音」全二回のインタビューが公開されます。公開に合わせ久保田麻琴と夕焼け楽団の1stアルバム『SUNSET GANG』から石丸忍が手掛けたアイコニックなロゴがプリントされたTシャツが発売される。色味は、フェードブラック、アッシュグレー、ホワイトの3色。サイズはS / M / L / XLの4サイズ。

モデル 身長173cm / 着用フェードブラックL

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