人が生きた痕跡のある音。久保田麻琴(1/2)

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INTERVIEWS:
久保田 麻琴/ミュージシャン・プロデューサー・録音エンジニア

人が生きている痕跡のある音。ライフスタイルの上に在って、エッジのある強い響き。そういったスピリットを拾い続ける久保田麻琴。氏の中にある国境を越えて残るリアルな音について語る。

ぶっとい音

私が今やってることは、英語圏にあるようなレコード・プロデューサーの形ともいえます。それはスピリットを拾って伝える仕事です。国境を超えていくように普遍的なところに行きたい。日本の場合サラリーマンプロデューサーが多かったため、どうしても上の顔を見ないといけない。なので安全な管理社会だけど、結局当たり障りのないレコードが出来上がってしまうことが多かったかもしれない。もちろんそうじゃない人もいますし、商業的にある期間成功する人もいますが。

話は飛ぶけど、ミュージシャン時代から私にとってレコードをミックスした後カッティング工場へ行く流れは、トラウマでした。ミックスができたら、そのままマスターテープを持っていって安全にカットするだけ。音が良くなる作業になっていない。それより何より日本には元々、マスタリングという概念がありませんでした。海外のレコードには、ある時期からMastered by という言葉が目立つようになりましたけど、誰もその意味を追求してこなかった。マスタリングでぶっとい音が浮かび上がる作業を誰も知らなかったわけです。

マスタリングというアイディアが出てきたのが80年代から90年代初頭くらいです。だから夕焼け楽団の頃はマスタリングの恩恵を受けていなかった。アルファ・レコードの*川添さん、*村井さん、細野(晴臣)さんはアメリカン・ショービジネスを既に意識してたし、A&Mと組んでいましたから、マスタリングの重要性や音に関しては早くから理解していましたね。

英語にそれほど不自由がなかったので、外国で録音する機会が多かった。夕焼け楽団も初期はハワイで録っています。その方が上手くいく。日本は電気的にボルテージも低くてアースもない電源ですから、それだけでも音の芯が違ってきます。ハワイに行くと気も楽だし、ちょっとバケーション気分で合宿録音でもある。スタジオには古い*NEVEがちゃんと入ってたし、ヴィンテージ機材が素晴らしかった。私が表現していた音楽は、レコード会社を儲けさせることはあまりなかったけど、そこに存在することはできた。

*村井邦彦
国民的な愛唱歌『翼をください』を作曲し、まだ高校生だったユーミンの才能を見いだし、アルファレコードを設立し、イエロー・マジック・オーケストラ(YMO)を世界市場に送り出した。最先端の設備と機材を惜しみなく投入したアルファの「スタジオA」を運営し、日本のニューミュージックの父と言っても過言ではない。

*川添象郎
後藤象二郎、川添浩史、原智恵子….日本文化の世界進出に貢献した一族の末裔であり、欧米スタイルのショービジネスを取り入れ、日本の音楽を世界に売り込んだ。音楽、演劇、アートをビジネスとして時代を駆け抜けた偉大なるプロデューサー。

*Neve
英国製調整卓で現在でも録音機材の最高峰。

価値のある音

時代性もあります。7、80年代の日本のスタジオ料金は世界で最も高額で、ディレクターがいい車に乗っているような、妙な時代でした。私は、そこにお金落とすより、も少しスマートに制作したかった。貿易と同じで、安いところで良いものを創るという考えです。私がそういうことが出来たのはインディーズ的な*トリオレコードだったからです。メジャー会社であれば、社内のスタジオでやってくれという話になりますから。そういうこともあって私は外国と縁がありました。

*ミッキー・カーチスさんも御自分のスタジオ持っていたり、外道のプロデュースをハワイでやったり、そもそも彼のバンド、SAMURAIは70年前後ヨーロッパで活動してレコードも発表していますし、我々のやっていることのパイオニアがミッキーさんあたりだったかもしれない。

*トリオレコード
傘下にあるレーベル「ショーボート」には憂歌団、南佳孝、吉田美奈子、小坂忠、外道、久保田麻琴と夕焼け楽団など。音響機器メーカーが設立したトリオレコードだけに音にこだわった作品を多く残した。

*ミッキー・カーチス
平尾昌晃、山下敬二郎と共に「ロカビリー3人男」として、戦後占領下のキャンプ廻りの活動を行う。その後は音楽性を広げ、クレイジー・ウエストとしてラウンジ・ジャズを演奏し、渡辺貞夫らとアジアへ演奏旅行し香港、バンコクに長期滞在。その後、ミッキーカーチス&サムライとしてヨーロッパで活動、西ドイツでアルバムを制作。ガロや小坂忠、矢沢永吉のいたキャロルなどのプロデュース・ワークもこなした。

The Samurai.Miki Curtis.The Move Carl Wayne 1968

リアル

私のスタジオマナーは、良いか悪いかは別としてジャマイカの影響が大きいです。それは例えば周波数とか機材の扱い方もそうです。彼らは奴隷時代からの歴史の上に生きていて、それを乗り越える心の力を持っています。貧しい分、すべてが手作りで、ゲットー内での伝達もすごく早い。ラスタマンとのスタジオワークは霊的な感じすらありました。私は、ロンドンやニューヨークにもしょっちゅう行きましたけど、やっぱりジャマイカが最も録音を勉強できる場所でした。

ジャマイカには経済がないけど、音楽を創るフィロソフィーがあります。我々とは違う価値観を持っている、彼らの言葉で言えばスタイル&カルチャーです。楽器屋がほぼないんです(笑)楽器屋がないのに音楽産業があるんですから不思議です。私たち日本は逆です。楽器屋だらけなのに音楽産業は世界には出ていけなかった。

一方イギリスは… 世界の音楽セールスから儲けたお金は、税金が高いので、家を買うか、スタジオに投資するしかないわけです。なので余ってるスタジオがたくさんあって当然料金は安い。録音機材もある意味、地場産業的でもある。一日中ドラムの音だけを創るような事ができるわけです。それはそれでイギリス独特の音に跳ね返ってきているとは思います。

逆にジャマイカにはミュージシャンやバンドはたくさんいるけど、経済がないからスタジオが圧倒的に少ない。そうするとスタジオは24時間フル回転で、一切無駄の許されない状況でスタジオワークが進みます。今のプロデュースワークは、非破壊レコーディング(通称:*DAW)ですから録音して失敗しても前の音が消えません。しかしテープだと消えてしまう。

当時ジャマイカではダビングする際どこで*パンチインするかは、エンジニアとプロデューサーとミュージシャンとが気持ちを共有しなければならなかった。「お前さ、わかってなきゃ駄目だよ」ということです。パンチインしようという時は、詳しい説明無しで30秒前にもうスタートしてしまう。ミュージシャンがコントロール・ルームを出て、マイクの前まで歩いて行く時間が約30秒。それも音楽のうちです。普通だったら考えられない(笑)。日本だったら場所の確認で1、2分使います。失敗はないけどその時間で気分が何処かに…。

私にとって、そのスピーディーさがとてもリアルでした。結局のところ、少ないスタジオ時間を多くのミュージシャンがピンと張り詰めた緊張感を持って、その時間をどう分け合うかという考え方なんだと思います。今はもうデジタル技術発展で、おそらくそんな感じはあまり残ってないかも。おそらく世界どこでも同じかもしれませんね。とにかく、そこで学んだことは、のちのアジアでの録音やさらに後の阿波踊りや民謡の録音で生かされていますね。

*DAW(Digital Audio Workstation、DAW)
パソコンを核としたデジタルで音声の録音、編集、ミキシング、編曲など一連の作業が出来るように構成された一体型のシステム、Pro Toolsなどを指す。

*パンチイン  テープレコーダーを走らせながら必要箇所を録音ボタンを叩き入れて録る。逆に抜くときはパンチアウト。マルチトラック・テープによる録音時代のテクニック。

残る音

我々の世代は、自分らのこんな音は日本では存在しにくいよなとか、そういう閉塞感があって。だから私らを実験材料として世界に持って行って、どうなるか?ということを実験していたのが、アルファレコードあたりでもあったのでしょうね。YMO(イエロー・マジック・オーケストラ)とか。

逆にプラスチックスなんかは一番の型破りで勇気のある子たちでしたね。中西トシオは革命児。プラスチックスは、ロックンロールだった。デビューした時から上手い下手じゃなくて、いきなりセントラルパークのステージで演奏した。ラリーズやプラスチックスやおとぼけビーバーがアメリカでウケてしまうのは、つまり我々がラーメンとかカツ丼を食ってどれが美味いか一発で分かるアレですね。ロックを作った国民だから一口食えば判る。ま、UKやオーストラリアもあるわけですけど。マーケットのデカさは圧倒的にアメリカ。これからはインド、中国、インドネシア… どうなりますかね。

なぜロックができたのかな?とかもう少し考えると、そこには止むに止まれね歴史があった。移住者の多くが大西洋の危険を冒してでもアメリカに移るしかなかったアイルランド系アメリカ人の歴史。彼らの心とか想い。奴隷貿易で新大陸にやってきたアフリカ系アメリカ人の人たちの心と想い。そしてネイティブ・アメリカンの要素もロックに相当な影響があります。抹消されようとした歴史があり、それでも脈々と声に残る先住民たちの心もあったわけです。

最初に世界ブレークしたのはプレスリーであり、その前はカントリー&ウエスタンであり、ブルースであり、そこが起源です。そういった人間のコアなところがあるモノにはやはり動かされます。でも日本ではパッケージ化されたブリティッシュロックの方がロックなんですね。

ハイサイおじさん

どうして我々は、ロックンロールがこんなにも好きなのか?なぜなんだろうと思うわけです。それは例えば、極東の街に育って、どういうCHEMISTRYがあればロックンロールくらい存在感のある音楽を創る事ができるのかな?と思ったりするわけです。たまたま私は、そういう状態で『ハイサイおじさん』と出会った。

西表島で乗った観光バスで、偶然耳にしたその曲の持つコアなところに触れてしまった。チャンプルーズという名前がすでに表しているようにミックスされたモノから出来上がる異国性、つまりエキゾチックな味わいがあるわけです。そこには初めてレゲエを聴いた時にも似た衝撃があった。

72、3年頃、横浜港から船でウラジオストック、そしてシベリア鉄道でモスクワを経由してロンドンに行った友達が、お土産でくれた『キャッチ・ア・ファイヤー』と『ハーダー・ゼイ・カム』、それもなかなかの衝撃でしたけど、『ハイサイおじさん』に関しては、ちょっとそれ以上の衝撃でした。

あの偶然がなかったら喜納昌吉という逸材は発掘されていなかったかも知れないし、私らが細野さんと『ハワイ・チャンプルー』を録ることもなかった。当時、私が昌吉に会いたいと言い出した時「あいつは不良だし、頭おかしいからやめとけ!」と沖縄のメディア関係が言うわけです。実際、誰とでも喧嘩するしマジなルードボーイだから(笑)。それでも私が『ハイサイおじさん』をカバーしたこともあって、沖縄のカウントダウンライブに呼ばれた76年の正月、明けた元旦早朝に、まだ標準語が喋りづらそうな昌吉氏がいきなり私に会いに来てくれた。「敵が多いのは知ってるけど、君の音楽は絶対に世界的になるから手伝いたい」と伝えた。

セカンド・ラインとカチャーシー

なかなか伝わりにくいことですけど、音楽も宇宙が作ったというある種の概念があるわけです。それが大前提です。自然は逆に人間を一生懸命支えてくれてるけど、人間はついついそれさえも忘れてしまうわけです。だから音楽をやる上においては、やっぱり昌吉もシャーマンなわけで、人間生活はアレかもしれないけど(笑)、やっぱりそういうベースがあるからこそ独特の音楽ができる。人間レベルでいちいちお前が正しいとか間違いとか言い始めるとキリがないですから。

そりゃもうすごかったですよ録音は(笑)。昌吉専属の*ユタと、三味線弾きのタカオのユタが違ったらしい。つまり精神的な支えが違うわけですから「お前は間違ってる!」と昌吉が攻めるわけです。録音中でも何か変なことを言う(笑)。スタジオの中では騒乱状態になって酷い状況になります。こちらはもう興味がないですから、卓のフェーダーを落として…。ハワイですしコントロールルームは昼寝みたいになってしまう(笑)。

そうすると暫くカオスが続いた後に、どうするのかというと全員が一点に集まって車座になり床を叩き出すんです。タッピングをはじめるわけです。全員が床を♪タンタンタンタンッ…♪タンタンタンタンッ…。30分ほどやってるわけです。でもそのうち、そのリズム、グルーヴが合ってくるんです。そしたら「やったねー!」って泣きながら、もうみんなが抱き合って仲良くなってしまう。それでその後に、すごいハッピーな曲を録ったりもする。

今考えると、そのリズムは*カチャーシーなんです。日本の音頭の元になる奄美の六調とも共通する沖縄のリズムです。ちょっと言うとセカンド・ラインにも共通する、人間を浄化する様な、人が解放されるようなノリがあります。多分『ハイサイおじさん』を聴いたときに、唯一細野さんだけが共鳴したということは、今考えれば、そのリズムの中にある真実を一発で感じとったんだと思います。ニューオーリンズに惹かれるのと同じです。ニューオーリンズではそのノリ、つまりパレードのビートをFONKと呼びます。これがFUNKになったのですね。脳の深いとこに届くというか、DNAレベルのビートなのでしょう。

*ユタ
沖縄県と鹿児島県奄美群島の民間霊媒師(シャーマン)であり、霊的問題や生活の中の問題点のアドバイス、解決を生業とする。

*カチャーシー
沖縄の方言で「かき混ぜる」という意味で両手を頭上に挙げ、手首を回しながら左右に振る踊り。役割決まりの多い沖縄の伝統芸のエイサーとは違い、生活に密着した踊りで、テンションが上がった時に突然はじまり、それぞれが自由に踊るという特徴がある。

*セカンド・ライン
ニューオーリンズのブラスバンドを伴った伝統的なパレードの名称。そこから生み出された独特のリズムは、ジャズ、R&B、ファンクなどの音楽の重要な要素となっている。葬儀場までは重々しい賛美歌を演奏するのに対し、埋葬を終えた後の帰路では魂が解放されて天国へ行くことを祝う意味が込められているジャズ葬を起源とする。

日本の会社との問題

私が*マルフクレコードで買ったレコードのお土産は、見事に内地ではウケませんでした。みんなちんどん屋みたいだとか、ふざけてるとかね、そんな反応でした。フィリップスが出した『ハイサイおじさん』のシングルは、赤塚不二夫のダメおやじがジャケットだよ!?日本のレコード会社の売り方は、曲の中にある深さとかクールさに理解とリスペクトもないので、ある種のセンセーションだけだと適当なプロモしか出てこない。

私はもう最初から沖縄は外国だと思ってたから、チャンプルーズのようなバンドがレコード会社と直に契約するのは良くないだろうと考えていました。原盤会社を作って、日本の会社からお金を引っ張って、現地で録音して権利はキープするとか、そこまでやらないと、と思っていました。ジャマイカ音楽的な考え方にしないと無理だと思っていました。で、最初の会社とは案の定関係がマズくなって*次の会社に移るわけですが…。

それはアイランド・レーベルのあり方を見てるから解るわけです。アイランド・レコードの*クリス・ブラックウェルと言う人は、アイルランド系ユダヤ人でしたけど、彼はジャマイカ国籍です。彼はチャリでジャマイカのシングルをロンドンで売って行商していた。それがアイランド・レコードの出発です。そういう人がいるからこそ世界的に成功するわけです。アイランド・レコードがあったからボブ・マーリーがいるわけです。でも若造だった私は、そんな崇高すぎることを考えすぎて話をなかなかまとめられず、プロデューサーになりきれなかったんです。

*マルフクレコード
普久原朝喜(ふくはら・ちょうき)が、1927年に大阪で創業したレコード会社。自転車の荷台に蓄音器を置いてレコードを聴かせながら行商した沖縄民謡の父である。

*次の会社
日音原盤に体勢が変わっての2枚目、ここで久保田はアレンジャー名義で制作の実質的プロデュースを任される。ライ・クーダー参加のハワイ録音によりアルバム『BLOODLINE』が完成。名曲『花』の誕生を見る。

*クリス・ブラックウェル
「メジャーレーベルはスーパーマーケットだけど、アイランドはとても洗練されたデリカテッセンだったからじゃないかな。」イングランドにおけるジャマイカ音楽というニッチ市場を開拓することに成功する稀代の音楽プロデューサー。

根源

今の若い子たちが『*まちぼうけ』を聴いて、そこからなんらかのサインを掴むというのは、とても面白いと思います。あのアルバム、リリース当時は全く無評価でしたから。リリースされたときは全く無反応。誰も当時どう評価して良いか分からなかった。いわゆるミュージックマガジンとか、音楽のシグナルを解説するような人たちにはウケなかった。ディランにも似ていないし、その音楽が何だか分からないわけです、アヴァンギャルドでもなく伝統音楽ですらなく(笑)。

ラリーズも実験的でしたし、自分がミュージシャンになるとか思ってないぐらいの頃でしたからね。ところがそのラリーズが、今海外で評価が高い。未来に残るものだったんだね。聴いてる世界のリスナーの9割はアメリカ、残りの10%を日本と他の国が分けている。年齢は2、30代が圧倒的でしょうね。何か自分でも上手く説明できないんですけど、今振り返ってみると、心の深いところでは確信があるわけです。ど真ん中にいるという。普遍的なことだったんだと思う。モードやスタイルを学ぶということもあるけれど、それ以上に何でそういうモノができたのか?という根源のところなんです。その痕跡があるものに関しては、やっぱりどうしても心が動きます。首根っこを掴まれるというかね。*水谷孝の音楽はそれなんだと思います。形だけではないんです。(続く)

☞耳に突き刺さる音。久保田麻琴(2/2)

*まちぼうけ
世界的に名高いこのアシッドフォークの大名作、演奏は松任谷正隆の他、大野克夫(スパイダーズ)、駒沢裕城(はちみつぱい)、藤田洋麻(夕焼け楽団)、後藤次利(サディスティック・ミカ・バンド)など、コーラスに瀬川洋(ダイナマイツ)、又、現在その再評価著しい音羽信も参加。1973年発表。

トラックリスト:
A1.あさの光 A2.かわいいお前 A3.汽車 A4.ひとごみ A5.山田氏の場合 A6.丸山神社
B1.まちぼうけ B2.休みの風 B3.Make Love Co. B4.時は近ずいて B5.Poor Boy B6.挽歌

*水谷孝
裸のラリーズのリーダー。1967年頃同志社大学で結成、初期のメンバー、若林盛亮は日航機ハイジャック犯。69年から久保田は渡米前後してラリーズに加わり73年まで参加。


Profile
久保田麻琴(くぼた・まこと)

同志社大学在学中より、「裸のラリーズ」のメンバーとして活動をはじめる。1973年に東芝よりソロアルバム『まちぼうけ』を発表し、その後、夕焼け楽団とともに数々のアルバムを発表、エリック・クラプトン初来日公演の全国ツアーにオープニングアクトとして参加するなど精力的にライヴ活動も行う。

またアレンジャー、プロデューサーとして喜納昌吉の本土紹介に関わり、チャンプルーズのアルバム『ブラッドライン』ではでライ・クーダーとも共演。80年代にはサンセッツとともに海外でも広く活動し、ジャパンの英国ツアーでのオープニング、オーストラリアではツアーや多くの野外フェスでトーキング・ヘッズ、ユーリズミックス、プリテンダーズ、インエクセスなどと共演。84年にはシングルが豪州でトップ5入りを果たす。

プロデューサーとしてザ・ブーム、ディック・リー、Monday満ちる、エルフィ・スカエシ、浜田真理子、濱口祐自など多くのアーティストのプロデュースを手がける。95年には宮本亜門演出によるミュージカル“マウイ”の音楽監督を行う。99年には細野晴臣とのユニット、”Harry and Mac”で久々にロック・シンガー・ソングライター・としてカムバックし、2000年にはさらにニューオリンズやウッドストックで、The Bandのレボン・ヘルムやガース・ハドソンなどと共演したソロ作品『ON THE BORDER』を発表。2001年には池田洋一、そしてマレーシアのMac Chew、Jenny Chinらとチームを組み、Blue Asiaプロジェクトをスタートさせ数枚のアルバムを発表、それぞれが欧州55名のラジオDJが選ぶwww.wmce.deで上位にランクイン。”

2007年頃より宮古島を中心とした南島の音楽や、阿波踊り、ブラジル北東部音楽を紹介するCDを制作。著作には岩浪新書”世界の音を訪ねる”がある。宮古島の神唄に焦点をあてたドキュメンタリー映画、”スケッチ・オブ・ミャーク”を企画原案、出演、製音を行う。同作品は、スイス・ロカルノ国際映画祭での正式招待を受け、ドキュメンタリー部門スペシャルメンションを獲得。2012年より全国ロードショーは約3万人の観客を動員。また大友克洋の最新アニメ作品”火要鎮”(ショートピース)のサウンドトラックを制作した。2024年には同監督のアニメ、”AKIRA”のリミックス・アルバムの制作にリミキサーとして関わる。CM制作、コンサートやイベントの企画制作も行い、DJや講演、ラジオ番組への選曲なども行っている。(日本コロムビアオフィシャルサイトより)

久保田麻琴オフィシャルサイト https://www.makotokubota.org
久保田麻琴オフィシャルインスタグラム https://www.instagram.com/2raloo/

久保田麻琴と夕焼け楽団 × mocgraph ロゴTシャツ

久保田麻琴が「mocgraph(モックグラフ)」に登場!「人が生きた痕跡のある音」「耳に突き刺さる音」全二回のインタビューが公開されます。公開に合わせ久保田麻琴と夕焼け楽団の1stアルバム『SUNSET GANG』から石丸忍が手掛けたアイコニックなロゴがプリントされたTシャツが発売される。色味は、フェードブラック、アッシュグレー、ホワイトの3色。サイズはS / M / L / XLの4サイズ。

モデル 身長173cm / 着用フェードブラックL

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