ミクニ的であれば絶対に成功する。オーナー・三國清三が考えるエスプリ(3/3)
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INTERVIEWS:
三國清三 / オーナーシェフ
エスプリとは、フランス語のespritの音写で、英語のスピリットに相当する。精神、霊魂などの意味の他、心のはたらき(知性、才気、ウィットなど)の意味もある。つまり、批評精神に富んだ軽妙洒脱で辛辣な言葉を当意即妙に述べる才のこと。
僕が学んだ本当のエスプリというのは、自分自身が素直に美味しいものを作るのが料理人ということです。「それは誰の料理でもなくお前の料理だろ!」ということだったわけです。
僕は20歳で大使館へ行って、六軒の三つ星を修業して回ります。最初は『ジラルデ』さん、『トロワグロ』、『オーベルジュ・ドゥ・リィル』、『ロアジス』、『ムーランド・ムージャン』最後は当時最も神に近い料理人と言われていた『アラン・シャペル』でした。ある日、僕は魚のポジションで普段通り仕事をしていると、デシャップで料理をまとめて出していたムッシュ・シャペルが突然僕に「セパラフィネ」と言うわけです。「ラフィネ」は、洗練とか繊細を意味するフランス語で「料理が、洗練されてないぞ」ということです。料理を受け取って、お客様に出してくれましたけど、もう一言だけでした。その後1年間居ましたけど、もう一言も喋ってくれなかったです。別に辞めろとか、料理を作るなとか言うわけでもなし。僕は、自問自答の日が続くわけです。
厨房には、いつも七人のコックさんがいました。毎日当番制で従業員の料理を作ります。夏になると僕は日本人ですから、さっぱりしたものを作ります。そうするとフランス人は、もうブーイングです。もっとクリームとバターとチーズを入れてくれと言われるわけです。こちらとしては真夏で体力もない時にそんなものは食べられない。しかし彼らは昔からお母さん、おばあちゃんの料理でも夏でもしっかりとクリームやバターも入れて、逆にそういうものを食べなければ保たないというわけです。その話をしていた時に、ハッと思いました。僕はやっぱり刺身とか、あっさりしたものが食べたい。やはり彼らはフランス人だと、僕はやっぱり日本人だなぁということで帰国を決めました。これ以上フランス料理を追いかけても意味がないと思った。なぜなら、僕は日本人だ、北海道の増毛の人間だとそこで気がつかされたわけです。
今思えば、ムッシュ・シャペルのあの一言は「お前は、日本人だろ!?何をそんなにカッコつけてやっているんだ」と思うのです。早く帰れということではなかったでしょうけど、その瞬間に彼はそういうことを思ったのでしょうね。のちに迷いがとれた時に、僕はみんなが、そして自分が素直に本当に美味しいと思う料理を日本に帰って作ろうと考え始めた。僕は、天麩羅も好きだし、中国料理も好きだし、焼き鳥も好きだし、茶碗蒸しも好きだし、素麺も大好きだし、そういうものをストレートに出したら日本人からバッシングされたわけです。「こんなフランス料理はない!」と(笑)。確かにどこを見回してもなかったですから。僕が学んだ本当のエスプリというのは、自分自身が素直に美味しいものを作るのが料理人ということです。「それは誰の料理でもなくお前の料理だろ!」ということだったわけです。
どんなに忙しくとも必ず毎日、厨房に立ちます「一回の失敗が35年間を全部ゼロにする。今日が大事なんだ」その心持ちで35年間やってきた結果、今があるわけです。
『オテル・ドゥ・ミクニ』をオープンした翌年86年から1億総グルメブームが起きます。我々はそれに乗っかりましたけど、その後バブルが崩壊します。当時、うちは30席くらいの小さな館でしたが、ほとんどのお店は、小さく10席くらいにするか、辞めるかという決断を迫られました。僕はどうしたか?お店の隣がロシア正教会でしたが、その年の1991年にソ連が崩壊してロシア連邦になるわけです。それまでロシア正教会は、ソビエト政権の反宗教政策によって、信者さんが疎外されていました。それがロシア連邦に変わり最高待遇で大使館に迎えられるということで、隣がポンと空いてしまったわけです。どうせ閉めるなら三倍にしようと覚悟して、一挙に80席の三倍にすることで乗り切ったわけです。
僕はまだ現役ですが、35年前が昨日の如くです。本当に35年間必死でした。どんなに忙しくとも必ず毎日、厨房に立ちます「一回の失敗が35年間を全部ゼロにする。今日が大事なんだ」その心持ちで35年間やってきた結果、今があるわけです。それ以外の理由は何もありません。それこそミシュランの三つ星だとか、うちはゼロですから。そういう中でお客様が減らずやってこられた。ロブションの一万円も、うちの一万円もお客様にとっては一緒なわけですから毎日ベストを尽くすしか方法はない。日本は、フレンチ以外にも選択肢がいっぱいあります、ここまで選択肢が多くある国はないと思います。その中で選ばれ続けるには、もう一生懸命やるしかない。
お客様がいっぱい入る要素は、料理が良くて、サービスが良く雰囲気が良くて評判が良い、そしてマスコミうけすることです(笑)。そうすると経営も成り立つ、非常に明確なわけです。
僕が修業した六軒のお店は、全員オーナーシェフでした。シェフでありオーナーでもありますから接客もするし、料理も作る、従業員の教育もするし、調度品からあつらえのセンスも全てです。そのエスプリが僕の血となり肉となっているので、自然と経営も料理も100%僕が決める。それがオーナシェフということです。日本でお店に自分の名前をつけたのも僕が最初ですが、少し後に先輩の熊谷喜八さんが「キハチ」というご自身の名前ではじめた。それは責任を持つという覚悟なわけです。
ヨーロッパでもヌーベル・キュイジーヌの以前のクラシックなお店の多くが、オーナーと料理長が別々にいました。オーナーがサービスをして、雇われ料理人がいる場合が多かったです。オーナーシェフの利点は、お客様に対しての全てのジャッジ権を持っていますから、例えばお客様がこういうものが食べたいだとか、こうしたいとだかああしたいだとか、その瞬間に決められるわけです。ですからトロワグロさんは、料理が終わると必ず、オーナーでもありますからお客様と話を交わすことで色々なヒントを貰っていました。それを自分たちが咀嚼して、もう直ぐに厨房に入って変えていました。そうすることでお店は段々とお客様が心地よい空間になっていくわけです。
儲かっていなければお皿も買えない、ものも新しく出来ないわけです。我々はやっぱりお客様が入るためにはどうしなければならないか?そこに集中するわけです。お客様がいっぱい入る要素は、料理が良くて、サービスが良く雰囲気が良くて評判が良い、そしてマスコミうけすることです。そうすると経営も成り立つ、非常に明確なわけです。僕が働いた六軒のオーナーシェフたちは、みなさん共通してマスコミ対応が素晴らしかった。メディア対応も全て自分がこなす。僕が修業していたジラルデさんは連日満席で「スイス銀行を破るよりも、ジラルデの席を取る方が難しい」本当にそう言われていたわけです(笑)。ですから経営も難しく考えればキリありませんね。とにかく我々オーナーシェフのお店というのは、お客様にどう喜んでもらえるかということを徹底的に考えることです。
僕は二十軒くらいのお店を、長く経営をしてきて思うわけです。いい料理長と、いい支配人二人を選ぶこと、それが全てなのだと思います。良い料理人とは、経営のこと、料理のこと、教育のことを分かっていて色々と目が行き届く。そしてサービス、お客様のことを良く分かっている。その料理長と支配人に僕のエスプリを伝えるわけです。彼らがミクニ的であったら絶対に成功します。そうでなければ、お店は必ず悪くなります。ですから僕のエスプリをどう伝えるかを常に考えています。例えばうちの支店、「ミクニナゴヤ」は、18年目を迎えていますがオープンからお客さんいっぱい入っています。この四ッ谷は、僕がレシピを作っているので僕が明日死ねばわからない(笑)。ですが他のお店は僕がいなくても十分に存在していける。料理もそうですが、料理以前に数字がメインなのです。その月の数字が1%でも達成出来なければ呼び出しです。みんな僕と会いたくないですから、みんな一生懸命に努力します。僕はミクニを何がなんでも継続していかなければならないわけです。
僕が職人としていま続けられているのは、ある意味において選択権がなかったからです。今はいっぱい選択権があります、あれがダメならこれだと。ですから選択権がない方が良いと思うわけです。
僕は、15歳から料理人を始めて札幌グランドホテルで洗い場を15、16、17歳と。帝国ホテルに出てきて18、19、20歳とずっと洗い場でした。そして20歳の時に村上料理長から、僕が洗い場をやっていたことを見ていたのでしょう。「三國君、ヨーロッパに出なさい」ということで、ジュネーブの軍縮会議大使館コック長に推薦してくれました。その時に村上料理長が10年後の君が30歳になった時、君たちの時代が必ず来るから頑張りなさいと。言われて出されたわけです。村上料理長はNHKの『今日の料理』というレギュラー番組を持っておられて、その時に僕も手伝っていました。「おい、ちょっと塩ふってみろ」と言われて、ふった。村上料理長にしてみたら「三國くんの塩振りは、大したものだ」というのも一つとしてあったでしょうけど、後から聞いた話では、村上料理長は総料理長ですから、僕がいたグリルという部門の料理長や周りに「三國は、どうだ?」って聞いていたそうです。そこでみんなから「奴は、性格もいいし、一生懸命働くし、とにかく周りからの仲間たちからの評判が良い」ということで総合的に判断したわけだと。
ある時『天皇の料理番』というテレビ番組を観ていて、初めて推薦していただいた本当の理由が分かりました。それは村上料理長も、秋山徳蔵さんもみんな20歳まで洗い場をやっていた。彼も豊かではなく貧乏だったそうで、とにかく帝国ホテルに入りたかった。コネもないし、自分で人事に履歴書持って行くけれどすごい列になって並んでいる。当然彼の履歴書は一番下です。「僕の番はまだですか?」と毎週行くわけです。その人事のおばちゃんがあまりにも熱心に来るので、ある日ポンっと一番上に上げてくれた。それで村上料理長は入社を許されて、洗い場をやるわけです。
秋山徳蔵さんは福井で昆布を売っていたそうです。それで軍の厨房に昆布を届けに行ったとき、たまたまそこでカツレツを焼いていた。そのカツレツにびっくりして毎日見に行くと「なんだお前、食いたいのか?」と食べさせてもらえた、その瞬間からカツレツに恋い焦がれるわけです。厨房のシェフが「これ作りたいのか?だったら帝国ホテルの隣りに華族会館があるから」と教えてくれるわけです。それで徳蔵さんは帝国ホテルの隣りの華族会館で洗い場を20歳までやるわけです。
ですから洗い場を20歳までやっていたのは三人一緒です。徳蔵さんは18歳からずっと洗い場をやっていて20歳になった時に「これ以上、洗い場をやっていたら俺はどうにもならない!」となって1909年に単身パリに行くわけです。それこそ100年以上前ですから、ご苦労をされて船で渡ったのでしょう。そこで努力して『ホテル・リッツ』のオーギュスト・エスコフィエのところに勤務するわけです。その当時エスコフィエといえば全世界のトップです、なんとそこで修業を始めるわけです。その後、天皇のお抱えに誰かいないか?となった時には「あのリッツのエスコフィエのもとで働いている秋山徳蔵しかいないだろ」となって彼は日本に呼び戻されて天皇の料理番になるわけです。
ですから僕が思ったのは、村上料理長ご自身もそうだし、秋山徳蔵先輩もそうだし、みんな20歳まで洗い場をしていた、多分そこで人を見たと思います。昔の子でも何年間も洗い場で2年間なんてもたないですから。こいつを海外に出したら、なんとかものになるかもしれないと。僕がいま職人として続けられているのは、ある意味において選択権がなかったからです。今はいっぱい選択権があります、あれがダメならこれだと。ですから選択権がない方が良いと思うわけです。僕らは食を提供する職人です。教わるではなく、盗むわけです。覚えるではなくて、皮膚に染み込ませるわけです。ですから人の何十倍も一生懸命やるしかない、ということです。(了)
食うために生きるのか、生きるために食うのか。三國清三が語る’食’の真実(2/3)☞戻る
こんなデタラメなフランス料理はない。批判こそ評価。三國清三が世界で評価される理由(1/3)☞戻る
1954年北海道増毛町生まれ。15歳で料理人を志し、札幌グランドホテルにて修業を始める。その後、帝国ホテルに移り、修業を続ける。1974年、現代フランス料理界天才料理人フレディ・ジラ ルデ氏に師事。その後、トロワグロ、オーベルジュ・ドゥ・リィル、ロアジス、アラン・シャペル等の三ツ星レストランにて修業を重ねる。1985年、ビストロ・サカナザのシェフを経て、東京・四ッ谷に“オテル・ドゥ・ミクニ”を開店。日本フランス料理技術組合代表。仏トゥール大学美食学名誉博士。北海道食大使、北海道白老アイヌ食文化大使。フランス農事功労章オフィシェ章受章。
Profile
Name: 三國清三
DOB: 1954/8/10
POB: 北海道増毛、日本
Occupation: オーナーシェフ
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