ビリー北村が考えるDJの価値。そして「今」必要な場所。

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ビリー北村/Dsicotheque DJ


1970年代から始まったディスコ・DJカルチャーの歴史は、どれだけの人に共有されているだろう。そこはTVに映るバブル・ディスコとは一線を画し感性の高いクリエイター、自分の人生に影響を与えてくれる洒落た大人が屯する場所だった。その空間でミキサーと二台のターンテーブルを使い、BPMや音量を調整し途切れることなく選曲するDJの価値とは何だろうか?

「ロンドンナイト」「ロカビリーナイト」「ギャングステージ」「ジャングルジム」…。ツバキハウス・チーフDJでもあり、数々のナイトシーンをディレクションしてきたビリー北村が考える’’DJの価値’’そして’今’思うこと。

黒と白の両方に通じる人、ミックスしていく才能を持つ人間が時代を作っていくのかもしれない。

俺が15歳の頃に行き始めた六本木のディスコは、入場料払って席に案内されてボトルと氷とおつまみのセットをとる様なところだった。やたら金のかかるディスコばかりの時代で、多くはドレスコードがあり中学生がスーツ着て行くにはどう見ても可笑しかった。ディスコがカジュアルじゃない時代、今でいう銀座の高級クラブに踊り場がついている空気で大人の世界だった。ある程度慣れた人じゃないと混ざっていけない不思議な世界だった。その上、店員の多くがアフロの兄ちゃんで危険な雰囲気がプンプン匂い立ち、客も怪しい雰囲気の奴が多かった。

78年映画『サタデー・ナイト・フィーバー』の影響が大きかった。一般の人もディスコに来る流れになり大企業もビジネスとして金を出すようになった。当時ブラックのディスコ映画もいっぱい上映されていたが『サタデー・ナイト・フィーバー』は白人ディスコ映画として世界中でヒットした。音楽はビー・ジーズ、白人があれだけクオリティの高いディスコミュージックを作って、当時テレビアイドルだったジョン・トラボルタが主役だからという色々な要素が当たったというところだ。

ディスコでかかる曲もブラックのソウルファンクとはまた違って、ブラックミュージックを母体にしたヨーロッパの楽曲が多かった。当時のラジオや洋楽ヒットチャートには、ディスコの曲が必ず何曲か入っていた。70年代半ばくらいは、踊りに行く行かない関係なしに特に一般の人達もディスコ曲をポピュラーミュージックとしてレコードを買っていた時代だった。メジャーやインディーズという言葉の区分けもなかったし、エルビス・プレスリーローリング・ストーンズ、そしてビートルズが売れたのも真っ白じゃなくて黒い要素が強かったからだ。黒と白の両方に通じる人、ミックスしていく才能を持つ人間が時代を作っていくのかもしれない。自分たちのフィルターで格好良くしてしまう、彼らもある意味ニューウェーブといえるだろう。

80年初頭くらいまでは、グレース・ジョーンズみたいにモデル出身でオーラがあって、楽曲も良いケースが結構あった。ミッジ・ユーロラスティー・イーガンがロンドンで仕掛けたロニーっていうモデル。スライの『If You Want Me To Stay』のカバーが秀逸で、世界観が抜群だ。スライでもなかなかこの曲は抜かない、ここを料理するっていうセンスが格好良いんだ。宝塚マネーネ・デートリッヒのイメージだ。ジャケットが格好良くて裏面も洒落ていた。途中の語りのところが素晴らしく良いんだ。そこをみんなもっと聴きたいから、裏面のインストとの組み合わせで20分くらいかけていくわけだ。フロアを真っ暗にしてさ。最高だ。

ツバキハウスには他にない世界があった。

75年にツバキハウスがオープン、そこには他にない世界があった。それは佐藤さん(=佐藤俊博)が創りあげたニューヨークのStudio54みたいなイメージだ。それまではクリエイターが集まる場所、感度が高い人達が遊びに行く場所が日本にはなかった。当時のツバキハウスにはVIP席に、誰もが知っているような憧れの人がいた。そうするとこの店は、そういった人たちのセンスに叶ったお墨付きの匂いがする。それも仕掛けの一つだった。デビッド・バーン坂本龍一さんが遊びに来て曲をリクエストして踊ったりすると「これだ!」という雰囲気になる。

ニューヨークでFujiyama MAMAっていうレストランをやっていた元ツバキDJのチアキさん。ツバキ関係のDJはみんなそこを訪ねていくわけだ、そこで働かせて貰いながらDJを勉強した。トオルさん(=高橋透)やノリ(=DJ NORI)、ナオ(=中村直)も当たり前のようにチアキさんを訪ねてニューヨークへ行った。ロカビリーナイトをやる時も、チアキさんがツバキにロカッツの『make that move』の12inchとこの曲のプロモーションビデオを送ってくれた。「これでやんな」ってさ。それから数年して亡くなってしまったけど、ずっとツバキの事を想ってくれていた人だったまっちゃん(=松田高志)もツバキにはなくてはならない存在だった。当時、世界的なディスコの女王だったグレース・ジョーンズが来ても、まっちゃんが一緒に新宿二丁目に連れていく流れがあった。VIP客にも対応出来てDJもできる。クリエイターや女優や俳優なんか癖のある連中はみんなまっちゃんを慕って来てた。

やっぱり感性の高い人は、みんな繋がっていた。当時クリエイターが行くような場所の情報は少なかった。佐藤さんがいた時のツバキ、玉椿、クラブD、TURIA、GOLD。松山さん(=松山勲)がやったレッドシューズやインクスティック。増田さん(=増田泰之)がやったMZAやグラムスラムもそうだ。そうなる前は赤坂にあったBYBLOSやMUGENがその役割をしていた。アイク&ティナ・ターナーサム&デイブ錚々たるメンツが演った伝説の場所だ。70から80年代はBYBLOS、MUGEN、ツバキで感度が高い人達は事足りる。それぐらい狭い世界だからこそクリエイターたちがみんな集まっていてエネルギーが爆発していた。

ヒットチャートの曲がかからなくても、毎週1,000人も集められることが証明された。

80年代に入ってからはロンドンナイト、ヘビーメタルナイトをきっかけにブラックミュージック、ダンスミュージックじゃないものでも毎週1,000人も集まる帯イベントが成り立つ事が証明された。そして違うジャンルでどうやって攻めるかを試行錯誤するわけだ、レゲエナイトやアフリカンナイト、ロカビリーナイトもそうだった。日本のボブ・マーリーといわれた69(ろっきゅう)オーナーのケイスケさんがレゲエナイトでバンドを演ったりもしてた。当時レゲエは、ニューウェーブの範囲かどうか分からないが、ロンドン経由で入って来るしパンクミュージシャンもレゲエビートをやっていた。俺も、82年に後楽園でマイキー・ドレッドと一緒にやったのを覚えている。日本でレゲエが浸透し始めた頃のことだ。

その頃、キャッシュボックスビルボードだけでは事足りず輸入レコード屋が一番情報をくれた。それも「向こうで多少ヒットしている」くらいの曲を探すのが重要だった歌舞伎町、六本木、渋谷、赤坂のディスコは何百もあって毎月ベスト10が出る、その中でもツバキハウスだけはヒット曲ではなくてみんなが知らない曲ばっかりが載っていた。他はもうみんなラジオのヒットチャートと同じで並びが違うくらいで「これが客に受ける今の曲です!」ってところだ。俺はそれがつまんねぇなと思っていたヒット曲はヒット曲でいい曲は、いっぱいあるし良いけど、そこで満足できない人たちが集まる場所がなかった。その役割がツバキハウスだった。

THE MODSのメンバーもよく来ていたし、バンドで突っ走ろうとしていた人たちはみんな来てた。その人たちはヒントが欲しくて来るわけだ。ミュージシャンやっている奴は当然自分らが好きなジャンルは聴くけれど、ツバキハウスでかかる曲にものすごくインスピレーションを求めていた。そういう意味ではツバキのDJは、曲作りのヒントになるものを提供していたのかもしれない。知っている曲でもそのDJがかけることによって「この曲かっこいい!」と全然違う曲に聴こえたり「前から知ってたけど、この曲こんなかっこよかったっけ?」と思えた時に新しい発見が生まれる。

テクニックは足りないけど青い魅力というのがある、それが大事だ。

俺は音楽が詳しい訳でもなく年に1、2枚レコード買うくらいだった。熱心に音楽雑誌を読んだり音楽番組を観る方ではない。楽しいからたまにディスコに行くぐらいでフラフラしていた奴だった。詳しくもないのに急にDJになる流れがあって、辛い事もいっぱいあったし辞めれば良かったけど面白くなってきっちゃうわけだ。84年ロカビリーナイト、85年ギャングステージ、ジャングルジム、色々なお店から音楽プロデュースをやってくれというオファーがあった。

若い頃は何にも考えてなかったけど今考えると、俺はひょんな役を貰ったと思ってる。見習いの時は貰えないけど、お金いっぱいくれるし女にモテたり、仕事なのに酒いくらでも飲めるし半分は遊び感覚でいつも盛り上がってパーティーだ。それまで平凡な暮らしをしていた奴とは一気に違う人生感だ。でも俺がこう言うことによって「俺、詳しくないんだけどな」って奴等に夢持たせられるかなとも思う。テクニックは足りないけど青い魅力というのがある、それが大事だ。先輩からも「お前、しょうがねーな」と言われながらも頑張ってるDJがいて良いんだ。バンドやアーティストも同じだと思う、技術はなくてもファーストアルバムはやはり魅力があることが多い。

あんなに喧嘩していたけど大きい傷を負ったことはあまりなく、今考えると不思議な何かに守られていた気配すら感じるんだ。

83年にBOTSっていう大阪のバンドをクロコダイルで完(=高木完)が紹介してくれた。大阪でロカビリーマニアの間では有名なジミー(=ジミー倉田)にロカビリーナイトを企画しているから手伝うかって誘ったんだ。当時は今と違って、ロカビリーなんてジャンルは情報が少なく、詳しい奴に聞くしかなかった。ジミーは何も知らない俺に基礎から教えてくれた。俺はディスコDJだから上手くミックスしながらスタイル作っていったんだ。

求められていたのか全国からマニアな奴等が1,000人規模で来るようになった。そうするとマニアックじゃない俺みたいな奴がやって良いのかなって話になる。だから詳しそうな奴を演じないといけない。俺はロカビリーに詳しい奴を演じていたんだ。貰った役を演じることが大切なんだ。ロンドンナイトでも大貫さんの弟子っていう体だから店側も詳しいだろうって見てる。でも実は何にも知らない「俺、どうすりゃいいんだ」みたいにさ。それで大貫憲章の弟子でロックに詳しい奴でいくしかねーなって決めた。特殊な客が多くて二十歳そこそこの小僧がよく通用したなって思う。見抜かれていただろうけど、あいつインチキクセーなとかさ(笑聲)。

客にブース前でよく中指も立てられた。ロンドンナイトは入り口でチェックがあって武器を預かる、それで帰るときに返す。風営法が変わるまでは店側も朝まで営業やらせてもらっているから警察にお世話になると営業停止になってしまうだから店のトラブルは警察呼ばないで対処する、呼ばないからややこしいことがいっぱいある。俺も従業員だから血だらけの奴を救急病院に運ぶっていうこともしょっちゅうあるわけで、金握らせて「これで頼むわ!」と話しても、後から弁護士つけて訴えてくる奴もいる。裏でやってくる奴もいるし、その裏が正攻法の裏なのか、裏の裏なのか。

俺はそういった経験もしてきたけど、1,000人規模のイベントだから10人くらい何かがあっても従業員が裏に連れていって処理をしてしまう。そういうことに遭遇した人にとってみれば怖い経験だったとは思う。でもそれは一日に起きている、ほんの一部のことだったし、大部分の人達は普通にオシャレな場として楽しんでいた。男でちょっと尖り気味の連中は、そういうことに遭遇する確率が高かったように思う。日々お店の中で喧嘩や色々なことが起きている。必然的にDJも気に食わない対象になってくる。週の半分くらいは喧嘩していたけど、俺は割と開きなおっていた。喧嘩が好きなわけではなく、少しでもそういう匂いがすると面倒臭いから起こる前に処理していたし個人の喧嘩だから、たかが知れていて普通に終わっていった。

本当はDJをやるのに、そういうことまで超えなければならない。そんな環境は要らないはずだ。しょうがないから、そうであっただけだ。ただそういうことも含めてエネルギーになっていた可能性はある。俺は二十歳そこそこで態度もでかかったし、同世代の他の人にしてみたら気に食わない対象だったと思う。だけどアウトローな奴が次々と下に付いてくる、それがあの頃は不思議と面白かった。そいつらが慕っている俺がすごい怖い奴に見えてしまう。俺自体はそんなでもないのに周りでそういう形ができてくる。いろんな意味で漫画みたいなことがいっぱいある。今のように40年前にネットがあったら、イメージにもっと加速がついたのか、そうでもないんだよって言えたのか、どっちだろうか。俺自身は昔から何も変わってないし自然体でいたつもりだけど周りの環境によって、そうならざるを得なかった。俺は流れに逆らわない人間だと思う。いつも狙われている自分を怖いと思う感覚はなかったし、それを覚悟というのかわからないけど、やるならやるっていう感じはあった。あんなに喧嘩していたけど大きい傷を負ったことはあまりなく、今考えると不思議な何かに守られていた気配すら感じるんだ。

俺は昔のディスコDJが一番強いと思っている。配分と技術それが腕なんだ。本来、DJは長距離走なんだ。

俺は昔のディスコDJが一番強いと思っている。配分と技術それが腕なんだ。本来、DJは長距離走なんだ。そういうレベルを維持しなければ給料を貰える契約は出来ないから、みんな腕は凄い。ディスコDJ経験者以降の人で、そんなにDJ出来る人はみた事がない。トリッキーな事は少し練習すれば誰でも出来る。一日12時間の営業の中で、どれだけ自分の配分で出来るかが仕事だった。DJブースの中に何十万枚ものレコードがあって、そこを自由に使える引き出しがあるかどうかだ。フリーのDJは量的にも限られているわけだ、そこで引き出しの幅が狭くなる。ツバキのチーフDJだった俺は毎月レコード枠55万円が与えられ、レコードを買わなければならない、買わないとサボっていることになるわけだから、もの凄い枚数だ。当時の輸入レコード屋、ウイナーズとかUKエジソン、シスコの担当の人がダンボール箱に入れて持ってきてくれていた。それをDJブースで試聴して買うわけだ。その中でツバキ独特のみんなが認める格好良い曲を浸透させていく、それがツバキのDJだった。

音楽は一回聴いて良いなと思う人もいれば、何度か聞いてピンとくる人もいる。後者の方が多い可能性があると仮定すると定期的にやって常連が増えていくと、何度も聴いて浸み込んでいく。だから数打っていかないと答えは出ない。多くが何度かやってすぐに答えを出したがる。耐える力が大事なんだ。ロカビリーナイトに関して考えると、あの頃ネオロカビリーのヒットは認知度が低くてヒットでもなんでもない。その曲を仕込んで500人、1,000人に浸透させて熱狂していくまでには時間がかかる。だけど浸透することによって、そこにいる奴等も「俺たちだけが知っている格好良さがあるという」一般の大衆ディスコに行っている人たちと違う特別感を持てた。

俺はDJとして名前を売ろうなんて思っていなかった。お店の音楽係としてベストを尽くす、そのお店にとってお客さんが満足するプレイをして給料をもらう。それだけで良かった。だから名前なんか出している人は少なかったし出す意味もなかった。DJではなくお店を絶対的に信頼してお客さんが付いてきてくれた。ブレがなく、その場所に行けばいつでも楽しめるという安心感があった。俺は、今考えても素晴らしいことだと思う。

「DJって他人の曲をかけているだけじゃん」その通りだと思う。

ツバキ以降の80年代後半に営業で呼ばれて「ビリー北村~っ!」とかってやられると、ただお約束曲セットをやるだけだ。もっと言えば俺の曲ではなく、楽曲はミュージシャンのものだ。客に対しての間合いもあるし曲の組み合わせに意味がある、そう考えている。それこそ長時間やった中の流れをつくって、お客さんを楽しませてこそのDJだと思っている。でもまったくDJを知らない人が「DJって他人の曲かけているだけじゃん」その通りだと思うその中でどう本当の職人として、仕事として、価値として、そのDJがやる意味を考えた時に思い出すのがディスコDJだ。トオルさんをみて初めてDJって格好良いと思った。俺なんかは横で見ていて本当に飽きなかった「本物とはこういう事だ!」そう感じたのを今でも鮮明に覚えている。指圧とか脂の状態で押しの感覚が違うとか、そんな事もトオルさんのプレイを見て学んだ。

ツバキ初期の頃は、TechnicsのSL1200じゃなくて重いデジタルなプレイヤーだ。立ち上がりも遅いしピッチコントロールもデジタルで回すから指で簡単に効かない、やり辛かった。当時のDJは手打ちドラムを合わせるための試行錯誤で無理やりな技をみんなが覚えていった、恵まれてないからこそってのがあった。勿論、日本にはクロスフェーダーはなかった時代で、手作りのクロスフェーダーを別注で作ったりもした。今思うと下の連中もみんな腕が良かったなと思う。飲み込みとかテクニックもすべて上手いっていうレベルには直ぐに達していた。褒めちゃいけないとかあったから、当時はあまり褒めなかったんだ。(笑聲)

ミュージシャンが演奏している音源が入った塩化ビニールの塊。ダイヤモンド針の振動を通した音は、扱うDJによって全く違うものになって聴こえて来る。

俺は、アナログDJしかやったことがないから何とも言えないし、科学的にどうだっていうことは分からない。勿論音域の幅は聴こえてない部分まで聴こえているとか色々な要因はあるだろうしかしそれだけじゃないプラスアルファのエネルギーが確実にある。トオルさんがブラックミュージックをかけているのを見て、見習いの俺がそのパターンを真似してやっても全然違うこれはトオルさんがその音源が大好きだっていうエネルギーとか、気持ちとか別物が加わっているのが二十歳の俺でも感じられた。DJは自分が好きな曲、その好きな気持ちのお裾分け、そのエネルギーが「どうだ、聴いてくれ!」という熱量に変わる。大貫さんを見ているとそう思うんだレコードというミュージシャンが演奏している音源が入った、ただの塩化ビニールの塊だけれど、ダイヤモンド針の振動を通した音は、扱うDJによって全く違うものになって聴こえてくる、不思議だけど、確実に違う。

音に関して考えると俺がDJになった時、ディスコミュージックは打ち込み音ではなくソウルもロックもジャンルは違うけれどみんなバンドスタイルだった。暫くして打ち込みモノが中心に出始めるとそこに刺激があるから、その打ち込み音に重点を置いた曲作りが主流になっていく。電子音は一定のリズムだが、ドラムは人の性格によってもグルーブやズレがある。俺は本来ドラムが肝だと思っていて原始時代から人の叩く音が元で次にメロディが生まれたと考えている。元の音であるドラムの部分が打ち込みになってしまうと魅力を感じなくなってしまう。そこに対しての答えは出しづらいけれど、人間の本能としてあるのかもしれない。

ディスコで起こる細かい事のすべてが、自分の人生に大きく影響を与えてくれる。そういう場所が大事なんだ。

ディスコ時代の様に、DJの価値じゃないけど、そこありきの活きた音の空間がもう少しあれば良いと思う。若者が居酒屋に行く感じでディスコに行って遊ぶというカジュアルに間口を広げて、少しでも興味があったら行ってみようという流れを作ることが重要だ。当時のディスコは2000円払えばフロアは広いから、マニアなディスコでも長く居られた。今は客が萎縮しちゃうような空気のところが多い。癖ある奴の横にずっと並んで居ないといけない圧迫感。そういうのが苦手な人もいるだろう。暗さは日本人にとっては踊りに入れる重要な要素だが、今は風営法で照度の規制があったりする。その規制を前提として何をしたら非日常の空間に入れるか?そこの工夫が出来ている場所が少ない。当時のディスコはライトや設備も単純なものしかなかったけれど色々な工夫を凝らしていた。今の時代もライトの工夫だけでも大分変わるんじゃないかという事を考えるんだ。広い場所を作っても客が踊りづらい雰囲気、みんなに見られている視線、そういった事も空間の工夫でクリアできる筈だ。

今、本当のDJを見せる場所が少ないし、このクラブシーンを何とかしたいと考えている。DJ業界は衰退しているけれど、俺はやっぱり文化的に重要なことだと考えている。若い頃に、音楽に興味が湧くのは当然のことだし、そこにきっかけを作ることは、やる側としてすごく意味のあることだと考えている。俺は二十歳でDJになってそう思ったし、足を運ぶディスコによってこれほどに違うと実感もした。ツバキハウスに足を踏み入れた瞬間に広がる雰囲気、スピーカーから流れる多くの格好良い曲、そこに集まる格好良い大人たちからセンスを盗む。そういったディスコで起こる細かい事のすべてが、自分の人生に大きく影響を与えてくれる。今必要なのは、そういう場所だと俺は考えている。(了)

【註釈】
ツバキハウス 75年テアトル新宿ビルにオープンしたDISCO NIGHT CLUB。

佐藤俊博 70年代のツバキハウス店長。〈ツバキハウス〉〈TSUBAKI BALL(玉椿)〉〈クラブD〉〈TURIA〉〈GOLD〉などの数々のディスコをプロデュースし、70年代からディスコシーンを牽引した。

高橋透 日本が誇るディスコDJ。1976年DJ活動を開始。〈ツバキハウス〉〈TSUBAKI BALL(玉椿)〉〈クラブD〉と80年代を代表する箱でメインDJを務める。1985年渡米。〈Fujiyama MAMA〉のメインDJに就任。同時に現在のクラブシーンに最も影響を与えた〈PARADAISE GARAGE〉のLarry Levanと交流。89年に〈芝浦GOLD〉立ち上げの為に帰国、ハウスミュージック、ガラージサウンドを日本に浸透させた。

DJ NORI 79年にDJ活動をスタート。86年渡米、〈PARADAISE GARAGE〉のLarry Levanと出会い数々のクラブにて共演。90年に帰国、〈GOLD〉のレジデントDJを務める。現在も国内外を問わず、世界中のオーディエンスを魅了し続けている。

中村直 81年ツバキハウスにてDJ活動を始める。 84年渡米、Frankie Knucklesらと交流を深め〈TRACKS〉〈THE SAINT〉などで日本人初のレジデントDJを務めた。リミキサーとしてBAD ATTITUDE名義でPUFFY、Every Little Thing、HΛL、浜崎あゆみなどの楽曲も手がけた。

松田高志 〈100BOX〉〈TSUBAKI〉〈TSUBAKI BALL(玉椿)〉〈GOLD〉〈Romio e Julietta〉といった伝説のクラブで活躍。BIGI、ニコルなどのファッションショーで音楽を担当するなど幅広い活動した。

松山勲 数々のディスコを作り、〈レッドシューズ〉〈インクスティック〉など各界の大物が集まる東京ナイトシーンを創りあげた。

Fujiyama MAMA ツバキハウスのDJだったチアキがニューヨークに出したお店。アンディ・ウォーホル、キース・ヘリング、バスキア、シンディ・ローパ、アニー・レノックス、リック・ジェームなどの溜まり場となったお店。

TSUBAKI BALL 和称玉椿。80年ツバキハスの姉妹店として六本木にオープンしたディスコ。

クラブD 〈ピテカントロプス・エレクトス〉を、佐藤としひろ、岡田大弐がリニューアルオープンさせた86年オープンのディスコ。

TURIA 87年オープンのディスコ。アレンジャーは空間プロデューサー山本コテツ。内装を手がけたのは映画「ブレードランナー」の美術コンセプトを担当したシド・ミード。「六本木ディスコ照明落下事故」により閉店。

GOLD 89年オープンしたディスコ。倉庫を改造した1階から7階まである空間を提供し、ハウス/ガラージサウンドを日本に浸透させた伝説の大箱。フロアコンセプトを考えたのは都築響一。クオリティの高い音と空間、時代の先端をいく人たちを虜にした。

インクスティック 松山勲がオーナーとして82年に六本木にオープンしたライブハウス。SOFT BALLETが初ライヴを行い、近田春夫『Vibra is Back』を収録したお店。ECDが主催するイベント「CHECK YOUR MIKE」第1回をスタートするなど日本のヒップホップシーンの黎明期を支えた。

MZA有明 88年オープンしたライブハウス、ディスコ。ポール・マッカートニー、M.C.ハマーをはじめ多くのアーティストがライブを行った。

グラムスラム横浜 91年にオープンしたプリンスがプロデュースしたライブディスコ。お忍びでStevie Wonderが訪れた。

増田泰之 80年代よりツバキハウスの店長として活躍。〈Romio e Julietta〉〈グラムスラム〉〈MZA有明〉などナイトシーンを彩った多くの遊び場を創った。

BYBLOS ディスコ。1971年開店。国内アーティストは勿論、海外アーティストが必ず行きたがるナイトスポットだった。著名人やモデル、クリエイターなどが集まり華やかな空気が漂った。

MUGEN ディスコ&ライブハウス。1968年開店。アイク&ティナ・ターナー、サム&デイブなど海外のミュージシャンの多くがライブを行った伝説場所。三島由紀夫、川端康成、丹下健三、小沢征爾、横尾忠則、篠山紀信、三宅一生の角界大御所が通い詰めた。

ロンドンナイト 80年スタート。大貫憲章がプロデュースしロックで踊れる日本で初めてのイベント。今も時代を超え音楽好きの社交場となっている。

ロカビリーナイト 84年スタートのロックイベント。ビリー北村がチーフDJ&プロデュースを務めた。

ギャングステージ ロカビリーナイトの兄弟イベントとして、ビリー北村が藤井悟をディレクターに迎え、85年にスタートした6T’Sイベント。今も東京モッズシーンに絶大な人気を与え続けている。

ジャングルジム 正式名称は『JUNGLE GYM TAKES A TRIP』西麻布のODEONをメインに、大貫憲章、ビリー北村、高木完、藤原ヒロシで構成された日本初のミクスチャーパーティー。ロンドンナイトでもなく、ロカビリーナイトでもない、クロスオーバーなロックが展開された。

THE BOTS 大阪のロカビリーバンド。1983年に1枚のアルバム『WAOoo~!!』を残し解散。ピテカントロプスで開催された「20 UNDER GIG」は、文字通り20歳以上は入れない伝説のイベントとして語り継がれている。

ジミー倉田 THE BOTSのフロントマン。THE BOTS解散後の86年、ソロ・アルバム『TRAVEL TRAVELLER』を製作。ジョニー・サンダースのプロデュースにより、グレン・マトロック(元セックス・ピストルズ)、ジェリー・ノーラン(元ニューヨーク・ドールズ~ハートブレイカーズ)など驚きのメンバーをバックにロンドンで録音された。


Name : ビリー北村
DOB : 1960
POB : Tokyo, JAPAN
Occupation : Dsicotheque DJ

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